【真面目に】『ビ・バップ』の誕生は西洋音楽史上の大革命だったが(前編)
今でもジャズの王道である「モダン・ジャズ」の基礎となる革命的な音楽スタイル「ビ・バップ」の創造者と言えば
チャーリー・パーカー
1920年8月29日 カンザスシティで生まれ育ったジャズ界の天才・革命児
もし彼がいなかったなら?ジャズという音楽は まったく違ったものになっていたかもしれません
ビ・バップ革命とは?
1930年代から1940年代初めにかけて大ブームになった 大人数構成のビッグバンドで綺麗なメロディーとハーモニーを奏でるスウィング・ミュージック
✅ スウィングから『ビ・バップ』に変わっていった大きな2つ理由
① 経済的(金銭的)に大人数を雇えなく小人数編成に移行していった
② これまでの楽譜通り演奏するスウィング・ミュージックに不満を抱いたジャズメンは『ミントンズ・プレイハウス』などで自由の象徴であもある即興演奏に没頭していった
一般的な音楽史の多くには 次のように書かれています
『ビ・バップ』の誕生は【西洋音楽史上の大革命】
従来で合わないとされていた非和声音(テンション・ノート)も「音楽理論上使える音を全部使ってみよう」という実験精神で 歴史上初めて『即興演奏』の可能性を大幅に解放した大革命なのです
菊地成孔氏は著書『東京大学のアルバート・アイラー—東大ジャズ講義録・歴史編』において
『ビ・バップ』の兆候を「音楽のスポーツ化」と呼んでいます
同じ理論(ルール)を共有して初めて「競争」が成立するのでわけです
『ビ・バップ』という新しいルールによって ジャズメンの演奏は「より速く・より複雑」になっていき 個人のテクニックを極限まで表現できて競い合う演奏スタイルに変わっていきました
ビ・バップ革命は
黒人ジャズメンが「芸術音楽」も演奏できるという底力を示し 白人の認識を改めさせる契機となったとも考えられます
天才とは努力する凡人
1935年末にハイスクールを退学~フルタイムでの音楽活動を開始
15歳でプロになったばかりのチャーリー・パーカーの演奏の評判は 芳しくありませんでした
「仕事のあと ジャムセッションに行ったが チャーリーが来るのを見るとその場を立ち去った。ピアノ奏者は彼とは演奏しようとしなかった」
「当時の彼の演奏はひどかった、聴いちゃいられなかった。皆で馬鹿にしたよ。ポンコツなサックスを吹きだった」(by オリバー・トッド)
映画『バード』でも再現されていますが ジャム・セッションに参加したバードのあまりのヘタさにジョー・ジョーンズからシンバルを投げつけられたという話があります(この逸話にも諸説あるようです)
1936年11月:交通事故で約4ヶ月間入院
この交通事故が 麻薬依存症への転機であったと考えられます
サックスを吹くことも出来ずに 病院のベットに寝たきりの状態で 痛みを和らげるためにモルヒネを処方されていて 退院後も脊柱と肋骨の痛みを和らげるためにヘロインを使わなければならなかったそうです
このことで 薬物注射のやり方を覚えて 当時のカンザスシティならば 麻薬は簡単に入手できたでしょう
1937年:バスター・スミス楽団に加入
自分の音楽的知識のなさを思い知ったチャーリーは 山ごもり(?)して独学で十二音階を修得します(一説には バスター・スミスがチャーリーに演奏の仕方をみっちりと教えたという話もあります)
この時に数多くの音楽知識をマスターしたことで 表現力の幅を大きく広げることになったのでしょう
1938年:ジェイ・マクシャン楽団に加入
1942年:ニューヨーク定住を決断 アール・ハインズ楽団に加入
(ここでディジー・ガレスピーに出会う)
この頃には 彼の知名度はあがり続け 人気者になっていましたが『ミントンズ・プレイ・ハウス』などでジャム・セッションに興じ 鍛錬し続けていきました
1944年:ビリー・エクスタイン楽団に移籍
当時はレコーディング・ストライキの時代はチャーリーにとっては バンドでのプレイ以外アピールする機会がなかったようです
【ビリー・エクスタイン楽団1944年の南部ツアーメンバー】
チャーリー・パーカー(As) ディジー・ガレスピー(Tp) ラッキー・トンプソン(Ts) ジーン・アモンズ(Ts) トミー・ポッター(B)、アート・ブレイキー(Ds) サラ・ボーン(Vo)
このバンドで実質的に音楽的なリーダーシップをとったのは?
チャーリー・パーカー&ディジー・ガレスピー
18歳の頃マイルス・デイヴィスは セントルイスにビリー・エクスタイン楽団が来たとき 病気で休んだ第3トラッペッターの代役を務めて チャーリー・パーカー ディジー・ガレスピーとの共演を果たす。このときのことをマイルスは「バードとディズの演奏を聴いてても何が何だかさっぱりわからなかった」と語っている。(引用:Wikipedia)
※ この動画は バード&ディズ脱退後のものです テナーソロはジーン・アモンズ ドラムはアート・ブレイキー
第二次世界大戦直後のアメリカ
多くの黒人は 軍需産業に職を求めて北部・中西部の都市に集中化していき戦争への参加によって
黒人の自意識が高まり以前よりは率直に発言する傾向が高まっていきます
第二次世界大戦を通じてアメリカは 大恐慌から抜け出し 1945年実質GDPは1939年と比べて88%増 失業率も労働力の1.2%まで低下しました
大戦中は ストライキを自粛して戦時動員に従事していた労働者を代表して労働組合が『賃上げ要求』することは自然な流れでしょう
そこで共和党が多数を占めていた議会は 労働運動の拡がりを警戒して
1947年6月23日『タフトハートレー法』制定させます
クローズドショップ制の禁止、ストライキの禁止などを内容とし 1935年のワグナー法で認めた労働者の諸権利を大幅に修正
しかし ほとんど効果がなく労働運動は激しさを増していきます
黒人への暴力を告発するビリー・ホリデイの『奇妙な果実』を作詞・作曲したユダヤ系高校教師(エイベル・ミーアポル)はアメリカ共産党員です
ディジー・ガレスピーは「ビ・バップは『抵抗の顕現』」と表現しています
冷戦が深刻になっていく中 『ジャズ』と『共産主義』を結びつくことを政権が恐れたことは容易に想像できます
ニューヨークの『キャバレー・カード』
1926年にニューヨークで制定された法案『キャバレー法』
この法律ができた背景には
黒人と白人が交流することを快く思わない人種差別的な意図 公の場でソーシャルダンスを踊ることに対する宗教的な反発もあったと考えられていて
制定当初は主にハーレムのジャズ・クラブが摘発の対象となっていました(禁酒法時代に大繁盛した『スピーク・イージー(モグリ酒場)』を統括するためにニューヨーク市がひねり出したの苦肉の条例)
そもそもは 店の営業許可制度だったのですが
1940年代に労働組合運動が活発となり キャバレー法は いつの間にか従業員の就業許可制度になっていきました
『キャバレー・カード』とは
調理師やウエイターだけでなく 出演ダンサー ミュージシャン コメディアンも『キャバレー・カード』を取得しないと働けない就業許可書(1940年から1967年まで存在)※前科者や麻薬中毒者にカードは支給されません
ニューヨークのアルコール販売局が関わりながら 実質的な審査と発行はNY市警(発行手数料は警察年金基金にまわすというシステム)
『キャバレー・カード』を失うと著名ジャズメンでさえもクラブに出演することができません
【キャバレー・カードを剥奪された主なジャズ界のスター】
チャーリー・パーカー ビリー・ホリデー セロニアス・モンク バド・パウエル ジャッキー・マクリーン など
剥奪の理由は「麻薬所持」などの理由になることが多かったようです
米公共ラジオ局「NPR」動画プログラム『JAZZ NIGHT IN AMERICA』
「キャバレー・カード」の人種差別と音楽界への影響について言及した動画