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What's Stax ? Why Stax Now ? ④外部環境変化~組織発展~軋轢
オープンドアポリシーとは?
そもそもの意味は、偉い人(上司・役員・社長)などのオフィスのドアを常にあけておいて、いつでもコミュニケーションできますよと、コミュニケーションに対して風通しよくしておくというもの。主な目的は、従業員に関する フィードバックや話し合いを奨励すること、 また組織が提供するサービスや 製品に関するアドバイスを 提供すること。
ジム・スチュアートの「オープンドアポリシー」
アメリカ南部で人種隔離が色濃く根付いていた時代のメンフィスで
スタックス・レコードは、あらゆる信条や肌の色を持つアーティストを迎え入れていたのです。
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ジムの「オープンドアポリシー」は、スタックス・レコードがただのレコード会社でなく、アーティストやファンにとって特別な場所となった理由の一つです。
スタックス・レコードのこの姿勢は、音楽業界だけでなく、当時のアメリカ社会全体にとっても前向きなメッセージを発信しました。
1960年代前半:アメリカ社会面の大きな波
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1960年2月1日『シットイン運動始まる(グリーンズボロ)』
1961年5月4日『フリーダムライド始まる』
1962年8月5日『マリリン・ モンローの謎の死』
1962年10月~11月『キューバ危機』
1963年8月28日『ワシントン大行進』
1963年9月15日『バーミンハム爆破事件』
1963年11月22日『ケネディ大統領暗殺』
1964年7月2日『公民権法が連邦議会で成立』
1964年8月2日『トンキン湾事件』
1964年12月11日『サム・クック射殺される』
1965年2月21日『マルコムX暗殺』
1965年8月11日『ワッツ暴動』
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ブリティッシュ・インヴェイジョン(British Invasion)
ビートルズの発祥地リヴァプールは 歴史的にも様々な文化交錯地点として機能していて アメリカの流行音楽がいち早く輸入されていた地域です。
社会的弱者の移民系労働階級の人々は 同じ被差別民族の黒人音楽を受入れそして変容することは イギリスの白人若者文化の形成に重要な要素でした。
1964年の初めのライフ誌は 次の記事を掲載しました
「(1776年に)イギリスはアメリカの植民地を失ったが 先週ザ・ビートルズはそれを取り戻した」
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1964年4月4日 ビルボード誌Hot 100でビートルズが1位~5位を独占します
1位「Can't Buy Me Love」
2位「Twist And Shout」
3位「She Loves You」
4位「I want To Hold Your Hand」
5位「Please Please Me」
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【ブリティッシュ・インヴェイジョン】の代名詞的な存在の『ロック』がもたらしたこと
① イギリスにおける労働者階級の社会文化的進出を促進した
② 音楽的ルーツである黒人音楽を本国アメリカにおいて再評価させた
③ ポピュラー音楽におけるオリジナル曲による自由な表現を確立させた
イギリス文化とアメリカ文化が共鳴・共振して相互補完的に影響を与え合い1960年代の全世界的な社会文化状況の変革へと『ロック』が導いたことは間違いないでしょう。
ビートルズの後に続いて「ザ・ローリング・ストーンズ」「ジ・アニマルズ」「ザ・キンクス」などのイギリス勢が次々とアメリカ進出します。
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The Great Otis Redding Sings Soul Ballads
1965年3月
オーティス・レディングの2作目のスタジオ・アルバムがリリースされました。ビルボード200:147位・R&Bチャート:3位 全英POP30位
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スタックスにとってオーティス・レティングがどれほど大きな存在だったのか?
「オーティス・レティングは魔法の薬のようだった。彼がスタジオに入ると、場の空気がぱっと明るくなって、心配事も問題も全部どこかに消えてなくなった。これから何か素敵なことが起きるぞ。そんな気持ちにさせてくれる男だったんだ。オーティスはどこまでもクリエイティブで、どこまでもポジティヴだった。オーティスが来ると、誰もが彼と一緒の場にいたいと思うんだ。本当に魔法のようだったね」
【”That's How Strong My Love Is”聴き比べ】
アルバムA面の1曲目の ”That's How Strong My Love Is”
この楽曲は、Roosevelt Jamisonの作品で、1964年にGoldwaxレーベルからO.V.ライトが歌ってリリースされたのが最初です。
作者のRoosevelt Jamisonは、この楽曲をスタックに持ち込んだのですが、ジム・スチュアートは「ゴスペル色が強すぎる」として断ったそうです。
The Keys & O.V. Wright
オーティス・バージョンは歌詞が書き換えられています。
The Rolling Stones - That's How Strong My Love Is
アル・ベル(Al Bell)
1965年 DJをしていたアル・ベル(Al Bell)は、プロモーション担当ディレクターとしてスタックスに入社します。
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アル・ベルは精力的な野心家で、プロモーション業務だけでなく、レーベルの音楽制作に直接関与することも多く、いくつかのアーティストのソングライターおよびプロデューサーとしても働きました。
66年3月ブライアン・エプスタインがビートルズのアルバム「リボルバー」録音候補地としてスタックスを訪問。社内は興奮の坩堝となり、さらに情報漏洩でファンも殺到したものの、セキュリティとかの問題で録音計画は消滅
「ビッグ6」=ブッカー・T&ジ・MGズの4人、アイザック・ヘイズとデヴィッド・ポーター)の利益分配体制が確立
この時点まで、スタックスで制作者クレジットが個人に与えられることは非常に稀で、実際、外部プロデューサーが関与した場合に限られており、アルバムには、レコーディング・スーパーバイザーとしてジム・スチュアートの名前が載っているだけだった。だがアル・ベルに熱心に説得され、スチュアートはついに「プロデュースト・バイ・スタッフ」とクレジットすることに同意、制作者印税はスタックス社の成功に最も貢献した上記の6人で分けることを認めた。要するに、利益分配制の導入である。(略)
[スタックス・サウンドに不可欠だったホーンの二人(ウェイン・ジャクスンとアンドルー・ラヴ)はこの体制に加えてもらえず不満を抱いた。
アル・ベルのスタックス入りとその後の昇進は、レーベルを新たな方向へと導きました。ベルはより積極的なマーケティング戦略を採用し、スタックスの音楽を国際的な市場に拡大しようと試みました。
この過程で、彼のアプローチや決定が、エステル・アクストンの価値観やスタックス創業時の理念と衝突することがあったのです。
アクストンはスタックスの「家族的」な雰囲気を重んじ、アーティスト第一のアプローチを支持していたのに対し、ベルはレーベルをより大きな商業的成功へと導くために、時には厳しい決断を下すことがありました。
Otis Blue / Otis Redding Sings Soul
1965年9月15日
オーティスの3枚目のスタジオアルバムがリリースされます。
オーティスにとって初めてのビルボードR&Bアルバム・チャート1位獲得
1966年Billboard200で最高75位
そして、イギリスで大ヒットを記録(全英チャート最高6位)
ブリティッシュ・インヴェイジョンは、スタックにも大きな影響を与えたのです。
ブルースもR&Bもイギリスからの逆入という形態で、アメリカ本土内でも白人社会に浸透していくのです。