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R&Bとソウル・ミュージック⑦揺らぐアトランティック

1959年のアトランティックは、セールス的には好調を維持していましたが、同社売上高の3分の1を占めていたボビー・ダーリンとレイ・チャールズという2大アーティストを相次いで失ったことに動揺していました。

新生ドリフターズのヒット

1958年にグループ名を引き継いだ2代目ドリフターズ(以前は5クラウンズとして知られていた)による最初のシングル「There Goes My Baby」がヒット

ベンジャミン・アール・ネルソン(ベン・E・キング)のグループ・リード・シンガーとしてデビュー・レコーディング

(1代目同様、ジェリー・リーバーとマイク・ストーラーがプロデュース)


「セーブ・ザ・ラスト・ダンス・フォー・ミー」が世界的な大ヒットとなり、米国で1位、英国で2位に達しました。


しかし、1960年5月、ベンジャミン・ネルソンがマネージャーのジョージ・トレッドウェルとの口論のためグループを脱退(ドリフターズでわずか1年で10回のレコーディング)

Stand By Me

芸名をベン・E・キングとしたベンジャミン・ネルソン
1960年10月27日にニューヨーク・アトランティック・スタジオで「Stand By Me」をレコーディング(1961年4月24日シングル・リリース)

リーバー&ストーラーとアトランティックの提携は大成功を収めましたが、1962 年までに関係は悪化して提携終了。


ソロモン・バーク登場

そんな大揺れのアトランティックのオフィスに突然、巨漢の男が現れたのです。その男の名は?ソロモン・バーク(Solomon Burke)

ソロモン・バークは、1955年末にアポロ・レコード(※)と契約して、2年間で9枚のシングルをレコーディングしました。
最初のシングル「Christmas Presents」をリリース。

アポロ・レコード(※)
1944年にアイク・バーマンとベス・バーマン、ハイ・シーゲル、サム・シュナイダーによってニューヨーク市で設立されたリズム アンド ブルース、ゴスペル、ジャズ、ドゥーワップなどのレーベル
最盛期の1948 年から 1952 年は、ゴスペルの女王”マヘリア・ジャクソン”の多くのレコーディングを行いました。

1960年11月にアトランティックと契約して、1961年から1965年にかけてリリースしたシングル32枚の殆どが、ポップ・チャートとR&Bチャートの両方チャートインしたのです。

2枚目のシングルはカントリー・ソング
「Just Out of Reach(Of My Two Empty Arms)」


ソウル・ミュージックという用語


ソロモン・バークは、彼のイメージと音楽の方向性についてアトランティックと意見が対立しました。
彼は、教会に対する忠誠心とR&Bの音楽に対する否定的な見方から、R&B歌手として分類されることを拒否します。
そこで、彼の懸念を解消するため、「ソウル・ミュージック」歌手としてマーケティングされることになりました。

この用語は、教会の承認を得て使用され、バーク自身が「ソウル・ミュージック」という言葉を作り出したとされています。


3枚目シングル「Cry To Me」のヒットで、彼は「ソウル・アーティスト」と呼ばれた最初のアーティストの一人となりました。


ドリス・トロイ(Doris Troy)

1963年初めにアトランティックと契約
「Just One Look」大ヒット(R&Bチャートで3位、ポップ・チャートで10)


彼女の「What'cha Gonna Do About It」は英国でさらなるヒットを記録


ジョー・テックス(Joe Tex)

ジョー・テックスは1955年から1957年にかけてキングレコードに録音したが、ほとんど成功しませんでした。

1964年11月にアラバマ州マッスルショールズのFAME Studiosで、彼の最初のヒット曲「Hold What You've Got」を録音

1965年の初めにこの曲をリリース。
Billboard Hot 100の5位、R&Bチャート1位の大ヒット。
1965年だけで、ジョー・テックスの6曲がR&Bチャート・イン。


スタックスと正式契約書締結

1965年5月
アトランティックはスタックスと正式な配給契約を締結します。
13ページに渡る契約書は、ごく当たり前の内容でしたが、一点だけ凄い内容になっている条項があったのです。

乙は甲またはその後継者あるいは譲受人に対して、いかなることがあろうとも、恒久的に、本契約書に具体的な記載のあるものを除き、一切の留保や制限なく、上記マスター及びそれに基づく各演奏について、その権利、権限、請求権をすべて譲渡するものとする

アトランティックとスタックスの契約書第6項C

アトランティックは1965年5月17日以前の全スタックス作品についても同様の権利を有する

アトランティックとスタックスの契約書第12項

ウェクスラーは一貫して「弁護士らがこの条項を勝手に付け加えたもの」と言い続けていますが?

1963年「If you need me(ウイルソン・ピケットの作品)」をソロモン・バークのシングル・リリースした際に、出版権は買い取ったのですが、デモ・テープの権利の購入を怠ったという失態を経験しています。

Solomon burke - if you need me (1963)


1964年にウイルソン・ピケットが「If you need me」をシングル・リリース


これが縁でウイルソン・ピケットもアトランティックに入ることになったのですが、スタックスとの正式契約の際に、ウェクスラーが『原盤貸与契約でも配給契約でもなく原盤購入契約』であることを知らなかったとは考えにくいのですが、、、

スタックスとの正式契約書を締結する時期には、アーティガン兄弟は”アトランティック社の身売り”を検討中だったのです。

アーティガン兄弟とウェクスラーの間に深い亀裂を生じさせた事件


リーバーとストーラーがアトランティック・レコードを去った後、彼らはユナイテッド・アーティスツ・レコードで活動し、その後1963年にレッド・バード・レコードを設立しました。

数曲のヒット曲を生み出しましたが、レーベルの財務状況は不安定でした。

1964年末、彼らはアトランティックとの合併をジェリー・ウェクスラーに提案しました。
この提案は最終的にアトランティックに彼らを買収させる計画に発展。

しかし、アーメット・アーティガンは『この提案はウェクスラーが彼らと共謀している』と確信して反発します。

最終的には、アーティガン兄弟が過半数の株を持っていたため、この話は実現しませんでした。

この事件によって、アーティガン兄弟とウェクスラーの間に深い亀裂を生じさせたのです。


1966年11月
アトランティックは、アレサ・フランクリンと契約します。


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