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R&Bとソウル・ミュージック⑩地区別で考える60年代前半のノーザン・ソウル

音楽用語を厳密に定義する必要はないとは思いますが、私流の「ソウル・ミュージック」次の通り。

『サザン・ソウル』
文字通り南部から生まれたソウルで、ゴスペルやブルースに直結して派生した音楽
『ディープ・ソウル』
ゴスペル・タッチのスロー・バラードで南部以外での録音も含み、歌い方や唱法も”ディープ”(軽くない)な感覚で「黒人の誇りや文化」が色濃く伝わってくる音楽

『ノーザン・ソウル』という言葉もよく使われているのですが、そもそも「60年代にイングランド北部のワーキング・クラスの若者から生まれ、後のレイヴ・カルチャーなどに影響を与えた音楽ムーヴメント」のことです。

ロンドンを中心に盛り上がりをみせていたモッズ・ムーブメントが終焉に向かいつつあった1966年頃からマンチェスター等のイングランド北部周辺のクラブで好まれていたソウル。あまり知られていないレアなソウルの曲をかけてクラブで踊っていたモッズのスタイルが、そのまま北部に受け継がれたとも言われている。 “NORTHERN SOUL“はイングランド北部のクラブDJの個人的なセンスであり、音楽としてのジャンルとしての定義はない。
レアな7インチシングルでクラブで激しく踊れる楽曲であることが重要。
“NORTHERN SOUL“のDJ達は誰も知らないシングルを探し出し、客を唸らせ、踊らせることだけに情熱を注いだ。ウケの良いシングルはDJにとってはアイデンティティであり。誰にも真似されない様に、誰のなんという曲なのかを隠していた。それらの楽曲の事を観客たちは“COVER UP(隠蔽)”と呼んでいた。またダンスにもまるでブルース・リーのキックの様なアクロバティックな動きを取り入れているという特徴がある。

映画「ノーザン・ソウル」公式サイトより抜粋

クラブDJたちは、商業的成功を収めたモータウンやモータウンの影響を受けた音楽を避けて、あまり知られていないアーティストのVeeJay、Chess、Brunswick、Ric-Tic、Gordy Records、Golden World Records、Mirwood Records 、Shout Recordsなどのレーベルのものが人気だったようだ。


デトロイト


私が「初期のモータウン・サウンドはソウル・ミュージックではない」という根拠のひとつとして、イギリスのクラブDJの感覚に似ていて、白人マーケットを意識した上で商業的成功を念頭に置いたのベリー・ゴーディのやり方に「黒人の誇り」を感じないのです。

H=D=H(エディ・ホーランド、ラモン・ドジャー、ブライアン・ホーランド)で知られるソングライター・チームの才能はマジ凄いと思います。

決してモータウン・サウンドが嫌いなのではなく、どんなシングルにもダンス・ビートを盛り込むというモットーによって人種間の壁を簡単に乗り越えていった点などはリスペクトしていますが、”ディープ”感を全く感じないので「ソウルではない」と勝手に思ってるだけです。


初期のモータウンで唯一?ソウルを感じたのは、Martha and the Vandellasが歌った『Dancing in the Street』

マーヴィン・ゲイ、ウィリアム・スティーブンソン、アイビー・ジョー・ハンターによって書かれた曲です。(マーヴィン・ゲイ 流石です!)


シカゴ

20世紀になって北部の工業化によって南部から多くの黒人がシカゴに流入します。1910年には23.5万人になり、60年には80万人を超えたと言われていて、シカゴの黒人比率(多くの黒人アーティストの卵も含まれる)が高くなっていきました。

シカゴの目抜き通りには、VeeJay、Chess、Brunswick、Okehなどのレコード・レーベルが軒を連ねています。「ロック・オラ」「シーバーグ」「ウーリッツァー」というジュークボックスを寡占して製造販売する会社はシカゴから発展しました。

シカゴに住んでいた友人による街の印象は次の通り。

「シカゴは『ブルースの街』『ジャズの街』として音楽が盛んな街ですが、『ソウルの街』と感じたことはない。そもそも『シカゴ・ソウル』という言葉は存在しないのでは?」

私の勝手な解釈は?次の通り


『シカゴ・ソウル』≒「カーティス・メイフィールド」

カーティスの音楽は『洗練された”ディープ・ソウル”』


(※)シカゴについては別の機会に詳しく書きたいと考えています。


60年代前半で活躍したシカゴのアーティストは?

ジーン・チャンドラー(Gene Chandler)

1962年「Duke Of Earl」がミリオン・セラー


フレッド・ヒューズ(Fred Hughes)

1965年「Oo Wee Baby, I Love You」がヒット

「You Can't Take It Away」は中ヒットですが、ちょっと”ディープ”です。


ウエスト・コースト


ボビー・フリーマン(Bobby Freeman)

1958年「Do You Wanna Dance」、1960年「Shimmy Shimmy」などのヒット曲をもつサンフランシスコ出身のボビー・フリーマン

1964年「C'Mon And Swim」で”スウィム”というダンスを流行させます。

この曲のライター&プロデューサーは”シルヴェスター・スチュアート”
後の スライ・ストーン です

Sly Stone (Sylvester Stewart)

ラークス(Larks)

1964年「The Jerk」がヒット


ベティ・スワン(Bettye Swann)

1967年「Make Me Yours」がヒット(彼女はルイジアナ生まれ)


ボビー&アール(Bob & Earl)

R&Bコーラスグループ"ハリウッド・フレイムス"出身のボビー・バード(Bobby Dayとしても活動)とアール・ネルソンによるR&Bデュオ
1963年「Harlem Shuffle」がヒット(Rolling Stonesのカヴァーで有名)


ニューヨーク


リトル・ジェリー・ウィリアムズ(Little Jerry Williams)

1966年「Baby, You're My Everything」がヒット

彼は、その後に南部に活動の舞台を移したスワンプ・ドッグ(Swamp Dogg)です。スタックスのアーティストにも楽曲を提供したソング・ライターで「20世紀アメリカ音楽の偉大なカルト人物の一人」です。

Swamp Dogg

J・J・ジャクスン(J.J. Jackson)

1966年「But, It's Alright」がヒット


アド・リブズ(The Ad Libs)

1965年「The Boy From New York City」がヒット


総括

総括するほどの内容ではありませんが、公民権運動の高まりにも刺激されて、黒人の感性を洗練されたサウンドで表現する「アメリカ黒人の現代的な大衆音楽」の発展形が『ソウル・ミュージック』

60年代にはモダン・ジャズ界でゴスペル・ソングの曲調を取り入れることが流行し、リズム・アンド・ブルースにゴスペルの影響が深く入り込んでソウル・ミュージックを生み出すなど、黒人民衆音楽の重要な柱のひとつとして今日まで生き続けている。

中村 とうよう氏曰く

50年代まで黒人音楽の主役であった「モダンジャズ(ハード・バップ~モード・ジャズ)」は、「フリー・ジャズ」登場によって大衆路線から離脱して自ら主役の座を降りました。

60年代前半は、『モータウン・サウンド』を主流としながらも「様子見的」「試行錯誤」状態だったのでしょう。

黒人オーディエンスに向けて発表してきた音楽が、白人マーケットに広がることで得られる「巨大マネー」も頭によぎっていたのかもしれません。


そして影響が大きいのは、北部の都会と南部の田舎の『人種差別の肌感覚の違い』は、音楽スタイルにも影響した大きな要因と考えます。


1960年代前半は、商業的に成功したいと頑張っている黒人アーティストは、目に見える政治的な行動をとることで、キャリアを脅かすようなリスクを冒すことは避けた時期だったのではないでしょうか?

”ディープ”感が薄いんです。

「自分は黒人であることを誇りに思っている、それは確かだが、ステージはそのことについて説教する場所ではないと思う。」

スモーキー・ロビンソン曰く

ワシントン大行進に参加したミュージシャンの多くは白人(ボブ・ディラン、ジョージ・バエズなど)で、黒人のビッグネームは、マヘリア・ジャクソン、ハリー・ベラフォンテ でした。


『モータウン』が公民権運動の黒人団体に資金援助を行った形跡は一つもありません。強いて言うなら、マーティン・ルーサー・キング牧師の有名な「I have a dream」演説を収めたアルバムを発売したくらいでしょう。



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