誰も見えていないこの世の本質はなんだろう
性格って変えることができないから、そこでどうしても向き不向きがあるよなと実感する。
例えば几帳面な人は、雑多な状態が許せない。反対に大雑把な人は楽観的で少し雑多な状態だろうが気にしないなどがある。自分は後者の方だが、いわゆる仕事ができる人というのは全社が多く、その優秀な仕事ができる人を雇えるパワーをまった人が多いのが後者だと感じる。
どうしても意識しても改善は少しは望めるだろうが、大きくは変わることができない。苦心して少し改善を望んでいくよりも、性格の強みを活かしてその人にしかできない仕事に注力していくことが、個人にとっても組織にとってもベストな環境なのではないかと考えている。
日本の教育が平均点数を上げることをKPIとしているように、会社としてもある程度できる人の存在を増やしていくことをKPIとしており、互いに強みを伸ばしてお互いの弱い部分を補完していくという考え自体があまりないのではないだろうか。
誰もが認めるような強みをもっており、かつそれが業務として即戦力のあるものであったならば、そういった仕事に就くことが出来るだろう。
しかし、まじめに日本教育に従ってきた多くの人にとっては、突出した強みなどなく、それぞれの性格の強みを無視して業務を強いられている。
当然、性格や環境が自分と会えば楽しいし、やりがいも感じるが、多くは人事の担当者が見抜くことであり、数時間の面談で見抜くことなどできない。
プラスして評価される仕事と業種が決まっており、自分の性格を無視して世間体を優先した行動をしてしまう。
仕事に良い悪いはないと言いながらも、誰しもがそういった優劣を心の中に抱いている。そこで無意識の間に、人を軽蔑し、尊敬するなどが生まれてくる。
全ての悪の根源がここにあると個人的には感じている。そこがスタート地点。すでに始まる前に泥沼の罠にはまっており、生まれたときからあたかも何もないように悪の中で育っていく。
そして誰もが気付かぬ間にその悪は育ち、気づいたころには取り返しがつかない事態に発展していることがほとんどだ。
誰もが自尊心を持ちたいと感じているし、愛されたいし、名誉を得たいと感じている。その指標が他人との比較でしか感じることが出来ないのが今の世の中に抜けている本質的な問題なのではないだろうか。
ペットと過ごしている人は優しい人が多いというのも、自分を認めてくれる存在がいるからだ。同じように家族と仲の良い人、信頼し合える仲間、愛する人がいるだけでもかなり違う。
自己啓発の書には愛というワードが頻発してくるが、これはある意味で真意を付く言葉ではないだろうか。
そういう自分も泥沼にはまっている分けで、より意識した仙人のような境地に至りたい笑
以上