かりそめの世界

娯楽と思っている事象が実は娯楽でないことがある。逆にストレスがたまり、なんだか悲観的な気持ちになる。行っているその時は娯楽でも、あとから漠然とした不安、自己嫌悪、ストレスが襲ってくることがある。ああ、なんだか時間を無駄にした気分、気持ちが晴れない、いま何をやっていたのだろうかと。

それは自分が望んでいることよりも他のことを優先しているというサインであるかもしれない。

そんな自分もアニメや映画、自己啓発、成功者の物語、起業家の話などが好きだ。テッドトークでためになるような話を聞き、ログミーでは起業家のインタビュー記事を読んで、なんだか視点が広くなったような感じを得る。だけど、いざ現実の世界に戻ってみると、自分自身は何も成長していなくてがっかりするときがある。

私は幼い頃、空手やバスケなどを半強制的に行っており、遊びたくても我慢して、辛い練習に耐えて習い事に行くという生活をしていた。当時の自分にはわからなかったが、この時間がいわゆる成長だった。気づけばスポーツマン担っており、自然と忍耐力もついて勉学にも励むことができ、効果は目に見えてあった。ただ、練習は辛く、自分もそれほど好きではなかったので、やりたくはなかった。そんなつらいけど成長して名誉を得ることが出来るという経験だった。

それ以降の生活はあまりつらい練習とゆるい生活を交互に繰り返してきた。辛い生活をすれば、自然と堕落したゆるい生活に戻りたくなり、だが、その生活が続くと自己嫌悪に陥り、このような生活をしていて良いのか、もっと「特別な存在」になるために成長出来る環境に身を置かなくてはというジレンマが起こっていた。それはいまも続いている。

何のために頑張るのかという一貫性のないままで、ただ、市場価値をあげたい、名誉を得たい、他の人よりも優れた人になりという欲求だけでは、結局なんのために頑張っているんだけ?という気持ちに負けてしまう。私は負けっぱなしだ。何が好きで、どんな人になりたくて、何でこれを頑張らなくてはいけないのかを意識しないままだと続けられない。そしてその継続のなさから、他の分野もしくはスピードを上げて追いつかなくてはと考える。

つらい環境に身を置き、そしてまた自問自答する。なんでこんなに頑張らなくてはいけないのかと。

つらいという環境が、他社の価値観で物事を判断していると気づかし、ゆるい環境がまた自分の中に忍び込み、他社の価値観で動かす。

漠然とした不安、焦りとなって己を動かす。

今の自分に必要なのは、一貫性のある芯だ。これがないからこそぶれにブレている。お釈迦さんがいうように人には中庸の法則がある。行き過ぎると反対に戻ろうとする意識だ。だからこそ、中庸の大切さを説いていた。人生における中庸とは、平凡な道ということに解釈されることが多いかもしれないが、私は中庸とは自分の軸、価値観への道だと考えている。

自分の本当の道を知ることで、中庸の生活を営むことが出来るのだと。  

己にとって人生とは何か。自由に生かされているからこそ自問自答出来るのだが、あまりにも社会の価値観とやらに触れているとこの質問に答えることがたいそう難しい。

小さい頃には何をしたいと考えた時に、思うがまま、好きなことを宣言することができただろう。社会的地位や収入、今後のキャリア設計などに関係なく、自分の好きなこと、関心のあることを宣言することができた。

今となっては情報がありすぎること、そしてなにより高い自尊心、プライドが邪魔をするということが強い。他人からの見られ方、評価が自分の軸の中に入り込んでいるのだ。

だからこそ、誰も邪魔されない、だれからもなにも言われない、ペルソナをかぶった自分が必要だ。

本当に経済的に自由で、欲しいものがすべて手に入り、時間がたっぷりとある環境だったら、1週間後に自分がもし人生を終えるとしたら何をしたいのだろうか。この質問こそが本当の回答に近しいかもしれない。

部屋中に落書きをすることかもしれない、高級車をレンタルしてドライブすることかもしれない。今までの関係者に感謝の気持ちを伝えることかもしれない。大切なひとと過ごす時間に当てるかもしれない。日常の中でなかなか行い日常らしい生活を意識的にやってみることもよい。今まで感じることができなかった、自然を感じること、ぼんやりと空を眺めること、文章を残すこともよい。

なんでもよい、それこそが誰にも邪魔されない中で実感できる、本当の自分なのだから。

さて、自由な選択肢がある中で、なにを選ぼうか。

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