教育の義務と権利
教育を受ける際に、これは義務教育だと認識しながら受けている人の数はどれくらいいるだろう。
実は、戦後からだんだんとこの数がふえてきている。彼らは教育を苦痛とみなし、使役とさえ感じている。
この問題から学力の低下という問題に結びついている。
最近読んだ本にはこの考察がかかれていたのだが、教育を受け始める時点での差が大きな要因としてこの学力低下を招いているらしい。
教育を受ける前なので、まだ勉強もしていないし、働いてもいない。
昔は、自分が何らかのお手伝いをすると、家族に褒められて、それが自分という自己を成り立たせる上で大切な通過点だった。
いわゆる、労働という点から、自分の存在を確立させていった。だから、なぜ働かなくてはいけないのか、なぜ、勉強しなければいけないのか?という問い自体は意味を持たなかった。
誰かに認めてもらえる。この欲求と成功体験こそがこの時代の学生にとっての根源なのだ。
だが、一方で、近年の子供達は、労働という立場に身を置ける環境自体が少ない。だからこそ、労働ではなく、消費という行為で他者との関わりを持つしかなくなる。
そうすると、自分の知識の範囲の中で必要、不必要を判別して購買行動をする。
これが、勉学にも影響を及ぼしている。
消費から入った子供達は、自分の権利として勉強を選ぶか、選ばないかを選択できると認識している。
勉強へのインセンティブは特にないので、
使役として耐える価値があるのかどうかを子供が選択するというのだ。
この本では、また次のようにも指摘している。
学校での勉強は、何に意味があるのか、どんな価値があるのかは終わってみてからでないとわからない。
つまり、始める前に、これが価値ある、価値がないとは判断できない。むしろ、勉強してみて初めて価値があるものだと認識することができる。
まとめるが、学力低下には未就学時代の経験が大きく影響を及ぼしている。それは、労働ではなく、消費からスタートしているという違いだが、取り組む上で、価値がある、ないでの判断をする。
だが、価値がある、ないとはその時の器や知識、経験内でしかはかるこもができず、
大きな矛盾をはらんでいる。