ペルソナの自由

自分の意見をただただ書きなぐることに快楽を感じる。今までたまりにたまった気持ちが爆発しているようだ。社会や公共の場ではこのような話を出来る人がいない、もしくはどうしても悲観的な内容や、少しことなる考え方、価値観だからうまく伝えることができないので、話をするのを拒んでいるからだ。

だけど、漠然とした将来への不安はどうしても閉じ込めておけない。気が狂いそうになるくらい、心の中へ入り込み、自分を思いなやませるからだ。これが本当にやりたいことなのか、自分の得意とすることなのか、何が正しいのか、どの選択をすべきなのかと、日に日に悩みが強くなる。

そしてそれを後押しするように忙しい業務、そして馴染めない環境。ああ、自分がかっこいいと感じていたものは本当は自分に合っていなかったのだなと。これは本当にやりたいことではなくて、やったらかっこいいこと、とがっているとみられたかったこと、すごいと褒めてもらいたかったことなんだと。

そして自分の選択には自分以外責任を取ることはできない。悪魔のささやきのようなよい言葉を信じてもダメ、うまくいく成功ストーリーだけを見ていてもダメだと。リセットする機会が必要だ。何を望み、何が真実なのかと。

書くことは好きだ。自分の意見を修正しながらまとめられる。今自分でもわかっていない内容やまとまっていない考えだって文字に起こして理解することができる。あたかも自分自身と会話しているようだ。それか、今までただただ断片的にしか捉えることができていなかった、頭の中をのぞくことができているようだ。

インプットしまくりの世の中でアウトプット、これは発散に近いかもしれないが、どんどん出しまくることは大切だ。本当に大事なことが埋もれてみえなくなってしまうから。ここ最近は特に自分自身がなんなのかもよくわかっていないから。

なにも考えずにただただ思想を書き続けていくことは、瞑想に近い状態だ。ふと集中力が途切れるとなにも書けなくなるのも不思議だ。なぜこのようにどんどんでてくるのか、そして書けば書くほどに頭がすっきりしてくる。

一言で気持ちい状態だ。物語を読んでいてもすっきりさは残らない、むしろここのの中に残っている。書くという行為だけが、すっきりさせる糸口となっている。

だが、話すことは苦手、一方的に話してもなんだか相手にうけいれられるのかをと感じてしまって集中ができない。そして身元がわかっている状態も書くことができない。やはり他者の存在を意識してしまうからだ。どうやら自分は極度の人見知りが本質のようだ。自分の意見に自信が持てない典型なのかもしれない。

文章の中で表現の自由が許されているような感覚だ。絵の具や習字セットがあったならばそこでも何か勝手に好きな絵を描いているのかもしれないが。

この自己満足が過ぎたらどのような状態に陥るのだろうか、書くことをもし仕事としたら他者を意識せざるをえなくなる。それはもはな自由とは言わない。他者の評価を気にせずに書けることこそが自由。なんと思われようが、これが自由だ。


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