唄ごごろ vs. 翻訳ごころ
昔から声楽が趣味で、オペラ歌手の先生に師事しています。長年習っているので、声はそれなりに出来上がってくるのですが、最後につまずくところがあります。それは、詰まるところ「唄ごころ」。
楽譜通りに正確に歌うだけでなく、心を打つ歌を届けられるかどうかは、最終的には歌い手の音楽性にかかっています。先生はそれを一言、「唄ごころ」と評されます。
しかし、心だけがあっても表現はできないのです。声を自由に操るという技術が土台にあってこそ、想いをカタチにすることができます。そこはやはり素人なので、いまだに曲ごとに技術のインプットに励んでいます。何年やっていても求道者です。
同じように、翻訳にも「翻訳ごごろ」があると感じます。
なぜ、そんなことを思ったかというと最近、コテコテの #広告コピー 溢れる記事を#英訳 したからです。広告ならば、正しく訳せばよいというものでありません。読者の興味をそそる文章に仕立てなければなりません。
日本語 の読み物を英語の #ターゲットグループに響く言葉 に訳すのは、そう簡単ではありません。日本語の感性的な表現は往々にして曖昧です。それを #英語のロジック でダイナミックに捉え直して、英語として料理する力業(ちからわざ)が必要になります。そして、それには確実な英語力が技術的な土台になります。もっとも英訳については私の場合、熟練ネイティブチェッカーの協力を得て、脇を固めています。
さらに、広告などの「水もの」の翻訳には、プラスアルファで言葉の感性が求められます。名付けて「翻訳ごころ💗」。今回の仕事は読み物だったので、軽やかに製品を語りながら、ジャーナリスティックな味付けにしてみました。
AIには絶対に真似できない翻訳に仕上げた自信があります。翻訳についてはプロですから技術もあれば、心(感性)もある、と言うに憚りはありません。
そして、これからの時代、翻訳者として生き残っていくのには、この「翻訳ごころ」こそが求められる資質なのではないでしょうか。
しかし、実に疲れる翻訳でした。ここは歌のレッスンに行ってリフレッシュしなければ♪