1回死んだ人間が思うこと「お金のしょうもなさ」

私1回死んでるんですよね。

今までネタとか嘘の記事ばかり投稿していたんですが、これは本当です。
信じてもらえないなら全然それで結構です。

私は21歳の冬に一度死にました。

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21歳の私は大学生で、毎日忙しく授業を受けていました。
その中の一つに、「地域デザイン実習(仮)」という授業がありました。それは選択科目であり、何となく私はそれを受講しました。
その内容とは、簡単にいえば大学付近にある店や風景を記事にし、ネットに上げてその出来栄えで単位の善し悪しが決まるものでした。

当時の私は張り切っていました。

大学から北にある地域を特集する記事を執筆したのですが、そこに夫婦が営むカフェがありました。
なんでもそこはイベント会場にもなり泊まることもできるそうです。

それを聞いた私は、「カフェに宿泊する」というイレギュラーなテーマに惹かれ、そこにアポを取り取材と宿泊へと漕ぎ着けました。

そして当日。私は夫婦に温かく迎えられ、楽しく談笑しコーヒーをすすりさあ泊まるぞとなりました。

ふと部屋の隅をみると黒く細長い機械がありました。なんでもご主人の趣味はDIYらしく、ストーブを自作してみたそうです。

これでこの寒い夜も大丈夫ですよ、まあ何かあったら呼んでください、おやすみなさいと言われ私は一人用意された部屋に残りました。

午前2時でした。

ほぼ初対面の人と、しかも年上と長時間話し、疲労が溜まっていました。

寝ようかと思いましたが、あまりない機会だからと本を読みくつろいでいました。

午前3時でした。

きりのいい所まで本を読み終え、横になるかと思った矢先でした。

何となく部屋の隅を見ます。


ストーブから黒煙が吹き出ていました。


6畳ほどの部屋に煙が充満し、たまらず主人を呼びました。

駆けつけた主人と私で急いで換気し、なんとか大事には至りませんでした。

ですが、もし私が疲れて本を読む前に寝ていたら……
本を読んだ後すぐ寝ていたら……

最悪私は一酸化炭素中毒で死んでいたでしょう。
というより、気まぐれで生き延びた、という方がニュアンスとして正しいと思います。

ここまで読んでいただけた方は、こう思っているでしょう。

「生きててラッキーだったね。まあ結果オーライじゃん」

でも、私は今生きててたびたび思うのです
「もしあの時死んでたら永遠に他人の人生狂わせられないんだな」

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このような名言があります。
「自分の人生を生きろ」

しかし、「自分の人生」とは自分だけでは証明できません。「他者」の行動や状態に必ず依存します。

「私はお金持ちだ」という文句が、資本主義社会において、他者と比較しなければ「お金持ち」といえないように、自己を決定するどの形容詞も他者の存在によって決定されます。

そう考えると、お金って持っている分他者との比較を余儀なくされるんです。
他人への優越感や余裕≒差を作ろうとするほど対象が大きくなり他者へのしがらみが強くなるのです。

こんな滑稽なことがありましょうか。
それでも皆気付かず、知っていても目を背けるようにお金に執着します。

世の中が狂っているのではなく、あなたとあなたの周囲の人間だけが狂っています。

救いがないですね。

では、どうすればいいのでしょうか。

答えは簡単です。

「自分の人生」は存在しないということに気付いてください。
人生って行動の重なりなんですよ。
行動とは?自分を取り巻く環境に影響を与えることです。
自分を変えることすら、他者への行動の準備にすぎません。

ここまで話せば薄々気付く方もおられるでしょう。


人生って「他人の人生をどう変えるか」でしかないんです

例えば、お金が好きな人は賃金でなく自分による経済効果が人生です。

もっと言うと、勝負事が好きな人は、勝者が誰であるかは全く無意味です。
どれだけ劇的な「負け」を作れるかが人生です。



気付けよ、人類…………

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