私が挑戦し続ける理由


私は夜の世界で働く両親の元に産まれた。
1歳を迎える前に父と母は離婚。
母は、”子供だけ欲しかった”と、離婚の理由を語った。
以降、母との生活が始まった。
物心つき始めた6歳頃、妹が産まれた。
お相手の方は、体に複数の模様の入っている人だった。
お相手の方は既に3人の息子が居て、お泊まりをした際
長男の子にボコボコに殴られた。理由は定かではないが、息が出来ない感覚は鮮明に覚えている。
その後、父親に暴力がバレ、長男の子は、吸っている途中のタバコを腕に押し付けられ肌を焼かれていた。
彼はもがき苦しみ泣いていた。
そんな経験から私は、妹の父との関係を断って欲しいと母に懇願した。結果として、妹も父を失う事となった。

それから、母は1人で2人の子供を育てていく事となった。
母は徐々に知らない誰かへとなっていった。急に泣き始め・急に笑い出し・急に怒りを露わにする。
そして、酷い時には私たちへ包丁を向け殺意を剥き出しにする。
妹の足へ焼き鳥の串を刺した事もあった。日に日にエスカレートし、親子心中を試みようとした事もあった。

そして、関わる人々は次第に体中に模様のある人々へと変わっていった。家を開ける事も増え、深夜に帰ってくる事も増えた。
不在時に妹(当時2歳頃)が泣き止まない時は、近隣の家をしらみつぶしにあたり、泣き止む方法を模索し、訴え続けた。
児童虐待の疑いから警察の方が家に来る事もあった。
それからは、あまり学校にいかなく(いけなく)なった。
朝は起きれず、昼からの登校。或いは、そもそも県内に居ない。
そんな日々。学校に行く時は決まって校長先生が迎えに来てくれた。

それから程なくして、住んでいた家は火事により全焼した。
原因はストーブの火が布団へ燃え移った為だ。
足の踏み場も無い様なゴミ屋敷だったから当然といえば当然だった。

以降、祖母の実家で生活する事となった。
住み始めて三日程経った日の夜、母は大きな荷物を持ってタバコを買いに行くと言い、家を出た。
その後、帰ってくる事は無かった。

それから、祖母・妹(当時3歳)との新生活が始まった。

飼い犬を殴り殺す程に歪み・腐っていた私に変わるきっかけを与えてくれたタイミングだった。
当時は誰も信用出来なかった。周囲の大人達と同様に、偽善で取り繕い、表面だけの言葉掛けを行い、
いざという時は守ってなどくれないのだろう。そう思っていた。
だが、祖母は違った。本気で向き合い続けてくれた。何度も言葉で傷つけた。それでも尚私に向き合い続けてくれた。
初めて心を開けた。最も親しい友であり、人生のライバルでもある。そんな存在となった。
そして、常に自信に満ち溢れ・人望厚く・本気で生ききっている祖母の背中を追う様になった。

それから、数年の月日を経て”普通”の生活を手にする事が出来た。
普通に学校に行き・友人との親睦も深められ・普通に勉強出来る様になった。
改めて皆んなと横並びになった時、自身の可能性を感じた。
それぞれ人生におけるスタートラインは違う。
そんな不平等なレースでも、自身の在り方次第で差など、どれだけでも埋める事が出来、追い抜く事さえ可能なのだと。
この学び・経験は自身の人生の軸となっている。

だからこそ、この後に続く、人生の困難・試練も乗り越え続け、成長し続ける事が出来ている。

全ての人がこの瞬間から自身の人生のハンドルを握る事が出来る。
自身の描くゴールに辿りつける力を持っている。
私は今後も挑戦し続ける。共に挑戦を決意し、自ら人生を切り開いていこう。


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