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自己紹介代わりの『居場所物語』 その①

昨年の11月からnoteを始めて、ほとんど更新もしないまま11ヶ月が経ちました。まだ、詳細なプロフィールを作成していませんでしたので、この機会に書いておこうかなと思います。

できるだけオリジナリティのある自己紹介にしたいと思い、その時代ごとに、私にとっての居場所はどんな所だったのかを織り交ぜながら書いてみます。

ここでいう『居場所』とは、単に通っていた場所というよりは、自分がここに居ていいんだと思える、安全・安心な『こころの居場所』を意味しています。


幼少期~小学生時代の居場所

私は、生まれてすぐに黄疸が出ていたため、保育器に入れられてしまいました。そのせいで、母と引き離され、おっぱいが飲めずに衰弱してしまったとか。もちろん、哺乳瓶でミルクは与えられてましたが、なぜか全く飲まず・・・

病院の看護師さんも、まさか哺乳瓶が嫌いだとは思わなかったようですが、私が頑としてミルクを飲まなかったため、困り果てて「お母さんのおっぱいなら飲むのかもしれない」と母の元に連れていったところ、夢中でおっぱいを吸ったそうで、ホント命拾いしました(笑)。

その後も哺乳瓶が嫌いで、母のおっぱいしか飲まなかったという話は、子供の頃から何度も聞かされてきたのですが、今この話を思い返すと、元々感覚が敏感だったのかなと思います。味が嫌だったのか、臭いが嫌だったのか、はたまた触感だったのか、、、

両親は小中学校の教員をしていて、私は、母の産休明けから、母の勤め先の近所に住む助産師さんに預けられました。近所なので、私が泣いていると生徒たちが「先生の赤ちゃんが泣いているよ!」と言っていたそうです(笑)。

でも、泣いても泣いてもお母さんは仕事中で来てくれない。。助産師さんはプロなので、私がどんなに泣きわめいていもどこ吹く風で動じず、母が昼休み等に授乳に来てくれたときには、涙のあとが残ったまま泣き疲れて寝ていたらしいです。

私も辛かったと思いますが、母も辛かったでしょうね。周りからのサポートもほとんどない時代に、仕事と子育てを両立することは、並々ならぬ苦労があったと思います。

兄弟はひとつ違いの弟がいます。第1子で長女ということもあるのか、小さい頃から、周囲の人に「しっかりしてるね」と言われて育ちました。

本当はもっと親に甘えたかったのかもしれませんが、仕事や家事に忙しい母を困らせまいといい子に徹していました。

いまのように共働き世帯が多くなかった時代ですが、通っていた保育園にはそれなりに園児はいました。先生も優しくて、保育園にいる間は寂しい思いをしてなかったと思います。

仲の良かった友達のことはあだ名でしか覚えてなかったのですが、そのうちのひとりの子と、高校生ぐらいのときに偶然駅で再会したんです。

卒園してからずっと会ってなくて、10年以上経っていたのにも関わらず、彼女が私の顔を覚えていてくれた上に、フルネームで呼んでくれたことには、本当に感激しました。

私の顔が5歳ぐらいから変わっていなかったのも、すぐに思い出してもらえた理由かもしれませんが・・・(笑)。

小学生時代、クラスの中では、リーダータイプでもなく、明るくて人気者という感じでもありませんでしたが、運動は苦手だけど、勉強はそこそこ出来たので、学級委員に選ばれることもありました。

学校までは、子供の足で40~50分ぐらいかかりましたので、朝は集団登校、帰りは同じ方向に帰る友達と道草しながら遊びながらでした。

鍵っ子でしたので、早く帰っても家には誰もおらず、母が用意してくれたおやつをひとりで食べて、週3回そろばん教室に通っていました。

他にも、習字・バレエ・英語と、いまみたいに学童保育なんてない時代でしたから、その代わりに毎日のように習い事に通っていました。

でも、モノになったのはそろばんぐらいで、市のそろばんコンクールで、確か金賞をとって、所属していたそろばん教室で表彰されました。私の過去の栄光と言えば、このそろばんコンクールぐらいです(笑)。

子供時代の『居場所』と言えば、やはりこのそろばん教室だったかなと思います。同じ学年の友達もたくさん通っていて、親戚のお姉さんみたいな先生に目をかけてもらってましたので、ホントに居心地が良かったです。


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