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【日本史7】鎌倉史備忘録28

鎌倉時代の学習を深めていきます。

本日の学習は、

①平安時代末期ごろに奈良時代から続く南都六宗と
よばれる伝統ある6つの仏教(顕教)に加えて
最澄が天台宗、空海が真言宗を開いた。

②この2つの仏教は密教である。
両者を合わせて顕密仏教という。

③鎌倉仏教は従来の顕密仏教の腐敗の改革のため、庶民への簡易宗教として生誕したと考えられてきた。

近年では対立的な存在ではなく既存の顕密仏教を継承した連続的なものと見直されている。

④当時の顕密仏教を支えた僧侶は国から給付を受けて国家のために祈る僧侶であったのに対し鎌倉仏教の始祖たちは新たな教えを開いた人物たちで国家でなく民衆のため祈ったという説もある。

⑤彼らの多くは数ある仏教の修行の中から一つを選択し
それだけをひたすら実行する専修という考え方に行き着いた。

⑥浄土宗の法然(開宗:1175年)、臨済宗の栄西(開宗:1191年)、浄土真宗(一向宗)の親鸞(開宗:1224年)、曹洞宗の道元(開宗:1227年)、日蓮宗(法華宗)の日蓮(開宗:1253年)、時宗の一遍(開宗:1274年)が開いた。

⑦鎌倉新仏教1番目に登場したのが浄土宗の開祖と仰がれた法然である。法然は地方豪族出身であるが、9歳の時に父が殺害されて15歳(13歳とも)で比叡山へ登って修行した。師匠である叡空のもとで25年を過ごした。

⑧1175年(承安5年)43歳の時に「南無阿弥陀仏」とひたすら念仏を唱えれば誰でも極楽浄土へ行けるという専修念仏の考えに行き着いた。彼の浄土宗は公家や武士からも信仰を得た。

⑨既存の仏教宗派から「念仏だけ唱えていれば何をしても許される」という発想は悪を助長する恐れがあると迫害にあった。1207年(承元元年)に讃岐(香川県)に流された。法然は抵抗のなかで亡くなり弟子たちに教えは継承されていった。

⑩鎌倉新仏教2番目に登場するのが臨済宗を日本に持ち込んだ栄西である。神職の家に生まれた栄西は13歳で比叡山へ登って28歳の頃には宋へ渡って仏教を学んだ。留学を通して日本における仏教の教えの誤りを感じて正そうとした。

⑪栄西は宋で禅宗に関心を抱くようになり47歳でインドを目指すために再度宋に向かった。インドには行かなかったが1191年(建久2年)に臨済宗を宋から日本へ伝えた。

⑫栄西の教えは源頼家(2代目将軍)や北条政子など武家の権力者の深い帰依を得た。栄西は源頼家から京都に建仁寺の開山、北条政子からは鎌倉に寿福寺の開山を命じられた。栄西亡き後も鎌倉・室町幕府を通じて臨済宗は浸透していった。

⑬武士たちに臨済宗が受け入れられた理由は栄西の『興禅護国論』に描かれた座禅という修行を通じて国を守るストイックな精神や旧仏教の影響力を警戒した鎌倉幕府の方針と考えられている。また臨済宗は穏健な改革に努めた。

■参考文献 『1冊でわかる鎌倉時代』 大石学 河出書房新社

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