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【歴史22】ベトナム史備忘録25(阮朝統一・阮光纘・阮福暎・嘉隆帝・ベトナム誕生・黎文悦)

ベトナム史の学習内容を深めていきます。

①阮恵が清軍と戦っていた事に南方では阮福暎がバンコクを脱出した。メコンデルタに戻ると阮侶の軍を破ってサイゴンを回復した。

②1792年に阮恵が亡くなり、1793年に阮岳が亡くなった。阮恵の子である阮光纘(グエンクアントアン)は阮岳領土まで支配して西山朝が一つになった。西山朝に勢いはなくなっていた。

③1799年に北進をした阮福暎のもとで華人、クメール人、チャム人、ラオ人、山地民など西山により排斥された勢力や西山に対して危機感を抱いた勢力が集まった。

④ピニョーが連れてきた義勇兵たち、火器調圧や戦艦建造に協力したポルトガル商人、メコン川流域への影響力拡大を目指すシャムといった外国勢力が阮福暎の味方をした。

⑤阮福暎が率いる連合軍は1800年にヴィジャヤ攻略をして北上をして1802年に昇竜を占領した。阮光纘は捕まり西山朝は滅亡した。

⑥西山朝を滅亡した阮福暎がフエで即位して嘉隆(サーロン)帝となって阮朝を開いた。歴史上はじめて今のベトナム北部、中部、南部が一つの政権下となった。

⑦中部阮氏の潮流である嘉隆帝は南方に広がった国土を反映させた南越(ナムベト)の国号で冊封される事を清側に要求した。

⑧清朝領域の広東地方、広西地方を含む漢時代の南越国と同じ国名になる事を許可しなかったため越人が住む地域の南方である越南(ベトナム)の国号で冊封する事となった。ベトナムという国名が生まれた。

⑨嘉隆帝はシャム国王への臣従であった金銀樹の貢納を停止してシャムに対して対等外交関係を求めた。

カンボジアやラオ人諸国のことは朝貢国として扱いインドシナ半島の大国としての形成を目指した。

⑩紫禁城をモデルとしたフエ宮城を造営するなど外見上は中国風邪の国家建設を進めたが南部の国際主義が反映されていた。

ヨーロッパ人やクメール人を重臣として取り立てて経済官職には華人を登用した。

⑪フエの宮廷が直接支配したのは中部のみであった。北部には北城(バックタイン)総鎮、南部に嘉定城総鎮を置いて各々の地域の政治や社会の仕組みに依存した統治を行って一つの国家として緩やかにまとめる体制を目指した。

⑫嘉定城総鎮の長官であった黎文悦(レーヴァンズエット)は華人の商人や各国の商人を優遇して国際商業地としてサイゴンを繁栄させた。大君となり王のように振舞った。

■参考文献 『1冊でわかるベトナム史』岡田 雅志 河出書房新社

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