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私の経験を伝えることで、誰かが前に進めるかもしれない。

今回もご覧いただき、誠にありがとうございます!

先日とても充実した3連休を過ごしたことで、絶賛モチベーションぶち上がり中のNSKですm(_ _)m

 先日のことですが、親友のKTSと三連休を丸々共に過ごすことができました!
ショッピングにサウナ、麻雀と遊び倒した後、最終日にとてもエモエモな時間を過ごしたことにより、モチベーションが青天井で上がってしまった次第でございます。

 某有名企業で若いながらも店長職につき、日々激務の中にありながら、命を削るような勢いで音楽活動を続けているKTSから、「消費者から生産者になって、俺に刺激をくれ」とアツいエールをもらったことで、再び自分から発信してみようと思い立った次第でございます。

前置きはこれくらいにして、今回の内容は…

そう、見出しのタイトルの通りでございます。笑

まだまだ他人に誇れるものを持っていない私が持っているもの。
それは、私だけの経験です。
その経験を発信することで、同じような経験をされた方や、不安に感じてる方が、私と同じような失敗をしないためのヒントになればいいなぁ…
これを見て救われる人がいるのであれば、私の人生に少しでも意味を感じることができるかもしれないなぁ…なんてことを思っております。

正直少し重めの内容になっておりますが、最後までお読みいただけると幸いでございます。

あなたは心が折れる音を聞いたことがありますか?

実際に耳では聞こえない。でも確かに私は聞きました。
自分の心が折れる音。
それは驚くほど軽く、細い音でした。

長文、乱文ではありますが、ありのままに私が経験したこと、感じたことをお伝えします。


「きっかけ」から「限界」まで

私は大学を卒業後、某自動車ディーラーの営業職に就職しました。
配属先の人間関係や、環境に恵まれ、とても苦しいながらも仕事にやりがいを感じながら前向きに働くことができていました。
配属先の店舗業績もとてもよく、私個人の実績も良い方でした。

順調に働くことができていた5年目に大きな転機が訪れました。
それは店長の異動です。

私にとって3人目の店長がやってきました。
1人目の店長、2人目の店長は従業員一人一人にとても親身になり、それぞれにあったやり方、アドバイスをするスタイルの店長でした。
他の従業員からの評価もとても高いすばらしい店長たちでした。
しかし、その3人目の店長は違いました。

その店長は、営業現役時代からとても優秀な実績を出し続けてきた、いわば敏腕営業マンでした。その実績からの自信があるのか、俺のやり方でやれば間違いない!という考え方で、特に若手の私や先輩のやり方や努力を全否定し、俺の言う通りにやっていれば車は売れるからその通りにやれ。と強く言われ続けました。

その「俺の言う通り」の仕事ができていないと、業務終了後、残業代の出ない中、2時間、3時間と怒鳴り散らし、机を殴り、椅子を蹴り飛ばし、「前の店舗ではもっと激しかった。そうされたくなければ言うとおりやれ。」と言われ、心理的、物理的な圧力をかけられました。

そんな3人目の店長ですが、全てが悪いわけではなく、仕事のやり方の中には尊敬できるところもありました。
しかし私はそのやり方についていくのが精一杯で、業務過多になっていました。
増え続ける仕事量と、処理しきれない仕事がどんどんと溜まっていってしまいました。

そんな厳しい中でしたが、1年後には実績が伸び、私は入社6年目ながら300人ほどいる営業マンの中で、総合賞7位以内をキープし続けていました。
これはかなり凄いことで、他の店舗の営業や、他の店長からもお褒めの言葉をいただけるほどでした。

しかしながら、3人目の店長は私を褒めることはなく、「俺の言う通りにやっているからだ。感謝しろよ。」と毎日のように言ってきました。
さらには、「お前はまだ本気で仕事をしていない。ベストを尽くしていない。忙しい時ほどもっと忙しくしろ。」とさらに仕事量を増やしてきました。
精神的には限界で、病院で勧められ受診した心療内科でうつ病の診断を受け、毎日薬を飲みながらなんとか仕事に出ていました。
私は自分の「限界」を感じていました。

しかし、そのまま無理をし続け、働き続けていました。
店長から毎日言われ続けることで、
「自分はまだできていない。」
「ベストを尽くせていない。」
「だからもっとやらなくてはいけない。」
そんな考えが頭に染み付いてしまっていたからなのかもしれません。

そして3人目の店長に変わってから1年半が過ぎた時。

私の心と身体が壊れました。

その瞬間のことはとてもよく覚えています。
私と一緒に店長から厳しくされていた、先輩がいたのですが、お互いに励まし合い、なんとか一緒に業務をこなし、私の精神的な支えになっていた先輩がいました。
しかし、その先輩も心と体の調子を崩し、ドクターストップで会社に出られなくなり、長期で休むことになってしまいました。

そのことを知った時でした。
「ポキッ」と音が聞こえました。
それは、全文でも述べた通り、驚くほど軽く、細い音でした。
その時の私は、先輩がいないと言うことは、その分のカバーを私がして、その分また怒られて・・・と考えてしまいました。
その音が聞こえた直後から、ガタガタと身体中が激しく震え、全身の痙攣が止まらなくなってしまいました。何とか止めようとしましたが止めることが出来ず、次第に何もわからなくなっていきました。
そこから記憶がありません。

後日その時の私を見ていた人から聞いたところ、痙攣して座ったまま動けなくなり、どれだけ声をかけても聞こえていないようだった。目を開いたまま無反応だったそうです。その方や他の従業員が店長へ報告し、落ち着くのを待って、私を家まで送ってくれたそうでした。

それから2日間ほど、手足や顔に痺れが残り、上手く話せなかったり、物が持てず、歩くのもままならない状態が続いてしまったため、再び心療内科を受診しました。

その心療内科では、私は俗に言う重度のうつ病の状態であること、パニック障害、恐怖症であること、原因は店長の可能性が非常に高いことなど他にもたくさん覚えきれないほど、現状の私の状態を伝えられました。

正直とてもショックでした。
まさか自分がそんな状態になるなんて思ってもいませんでした。

心療内科の先生からは、とにかく休養をとり、職場の環境が変わらないのであれば退職をすることを強く勧められました。

そのことをきっかけに私は6年半働いた会社を退職することになりました。
会社側と何度も協議を重ねましたが、同じ店舗で2人倒れているのに店長が異動することはなく、会社側も環境をすぐに変えることはなく、
「やめないでほしい。」「戻ってきてほしい。」というばかりだったため、
職場に復帰することはできませんでした。

顛末

私は仕事もキャリアも失いました。

仕事だけではなく、自信も失いました。

得たものは「トラウマ」でした。

あの時、自分の限界を感じていた時、立ち止まることができたら、違う結果になっていたかもしれません。何も失うことはなかったのかもしれません。

毎日やり場の無い後悔や、誰にというわけでもない申し訳なさを感じ続けていました。

回復

今ではかなり精神状態も良くなり、新しい職場で働くこともできています。
家族や親友のKTS、周りの人たちにたくさん支えてもらうことができたためだと思っています。

ですが、1年以上経った今でも全てが回復したわけではありません。

仕事を本気で頑張ることへの恐怖はもう拭える日は来ないのかもしれません。
言い訳のようになってしまうのはわかっています。
でももう嫌なんです。
あんな経験はもうしたく無い。
自分の心と身体がこれ以上壊れるのが怖くて仕方ありません。

私はまだ立ち直りきれていません。


「まだやれる」と思った時、「限界」に立っている

もちろん考え方は人それぞれです。
でも私は今回の経験から、こう思いました。
「限界」を超えることができる人ももちろんいます。
でも、私のように「限界」が超えられない人間もいます。

「限界」を超えられないのは、1人ではありません。

少なくともここに1人います。

自分の心と身体が壊れるような「限界」を超える必要はありません。
そんなことのために人生を壊す必要はありません。
そんなに気負う必要はありません。

「限界」は「限界」なのです

自分の思うベストと、他人の言うベストは違う。

だから自分のペースで進んでいけばいいんです。

あなたの人生の主人公はあなた以外いないのですから。

私がとても救われた言葉を紹介します。
とても大切な人に言われた言葉です。
その言葉で私は救われました。

「あんまり無理すんなよ」


最後に

かなり長くなってしましたね。笑
気がつけば3500字を超えていました。(^^;;
ついつい思うがままに書き殴ってしましました
きっとこの記事が誰かの心を軽くしてくれますようにm(_ _)m

次は何か明るく楽しい記事を書こうと思っていますので、お読みいただけると大変嬉しいです!

ここまでお読みいただきありがとうございましたm(_ _)m

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