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鬱でした

こんにちは、ますぼっとです。

2023年12月と2024年1月の月報が書けていないのですが、それよりも先にこっちを書いた方がいいかなと思い、つらつらとこれを書いています。

これまでの月報でもそれっぽい話題はいくつか出していたのですが、ぼくは去年の夏頃から鬱の症状が出るようになり、現在もお薬を服用している毎日です。

幸い、お薬との相性もよく、ここ数ヶ月の精神状態はかなり安定しています。また、修士論文にずっと追われていたのですが、99%それも終わっているので、これを書くことに着手したという訳です。

かなりリアルな内容を含むので、読むことはあまりお勧めしません。気分が悪くなったらすぐに読むのをやめてください。未来の自分への備忘録として書いています。

経緯

2023年度のますぼっとのリアル方面は、就活・研究・教育という三本柱で始まりました。

まず就活ですが、ぼくはもともと出版社の編集マンになることを目指しており、去年の1月頃から就活をスタートしました。

出版業界の就活フローは、ES→テスト(複数回)→オンライン面接→リアル面接(複数回)という、どこも比較的やや長めのものとなっています。また出版就活では、1~4月が大手3社とよばれるS英社・K談社・S学館の就活時期、4~7月がそれ以外の出版社という流れで、大手3社に落ちると就活が2ターム目に突入するのが常識です。

ぼくは幸い、大手3社のESはすべて通ったので、そこから数ヶ月に及ぶ就活がスタートしました。しかし現実は厳しく、1番良い結果だったのはS英社(3次面接落ち)でした。ここから地獄の就活2ターム目が始まりました。

ぼくは理系大学院生だったので、当然周囲に出版就活をしている友達などおらず、OB・OG訪問と就活本以外に情報を手に入れる場がありませんでした。自分にとって、孤軍奮闘の状況で就活を進めるのは精神的にかなりキツいものでした。さらに、自分よりも後に就活をスタートしたラボの同期が着々と就活を終え、「彼らから気を遣われている」感がラボでの生活に浸透しつつあるのも非常に苦しかったです。

2ターム目の就活もESはすべて通ったのですが、ことごとく面接に落ち、自分に対する無能感が日に日に高まっていました。さすがに社名をほのめかすのは辞めておきますが、某社ではほぼ落ちることのないはずの、社長との最終面接に落ち、そこで完全に心が折れた感覚がありました。あ、人間って心が折れると本当に何も先のことが見えなくなるんだな、と。

実家のある京都から東京まで、新幹線で何度も往復しているうちに、初めは目移りするものばかりでキラキラしていた東京が、だんだんと畏怖の対象になっていきました。至るところにある高層ビルも、駅の中に無数にいるサラリーマンも、チェーン店で働いているアルバイトの外国人も、何もかもが無機質に感じてしまい、自分はこの街で暮らすのは無理だろうなと思うようになりました。

次に研究です。研究に関してはぼくはここ1年半、ずっと良い結果が出ずに、自分の研究テーマに対してかなり嫌気が刺していました。

正しい結果を出せば卒業はできるはずなのでそれだけならまぁ良いのですが、自分にとってキツかったのは「御局様」的な教授の存在でした。この先生は自分の指導教官ではなく、あくまでラボに出入りしている先生なのですが、研究に関してかなり熱心に指導もされる先生でした。ぼくを含む学生とその先生との知識の対称性にはかなり大きな隔たりがあり、分からないことを教えないまま「なんでやってないの」と指導してくるタイプの先生でした。

前々からかなり自分にとって苦手な先生だったのですが、自分にとってその苦手度合いが一気に上がったのが、5月の学会発表のときでした。発表終了後、颯爽とその先生はぼくの発表資料の前に現れ、まだ他の人がいる発表会場でぼくの資料のダメ出しを始めました。先生にとってはあくまでもそれは指導だったのでしょうが、ぼくにとってはそのときの場の雰囲気がかなり苦しく、これが一種のトラウマになってしまいました。

また教育ですが、ぼくは現在とある学校で非常勤講師としても働いています。これに関しては詳細は伏せますが、教材づくりが割とかなり時間かかってます。でも、教え子が授業でリアクションをくれるので、すごくやりがいになっていて良いです。

発症

さて、こんな感じで夏を迎えたのですが、ぼくにとって大きなアクシデントが2つありました。

1つは、2ターム目の就活に全落ちしたことです。このせいでかなり自分は自己肯定感の急激な低下と人間不信に陥ってしまい、次にやるべき3ターム目の就活を始める頃には自暴自棄になりつつありました。

もう1つは、苦手な先生との研究報告会を控えていたことです。研究が上手くいかないだけでなく、学会発表のトラウマもあり、このイベントが日に日に近づくにつれて「消えてしまいたい」という欲求が高まっていました。

自分の人生の中でここまで追い込まれた経験というのはなく、どこにも頼みの綱がないような気がしながらネットをみている中で、心療内科へ行くという手立てに気が付きました。勝手もわからず心療内科へ行くのは正直ものすごく抵抗感がありましたが、背に腹はかえられない状況だったので、通いやすい場所を選択しました。

初回は長めの問診がありましたが、若干の不信感から自己開示も上手くできず、主治医も困惑していたのかと思います(ここに通う人はみんなこんな感じなのかな、とも考えてた)。とりあえず様子見で睡眠導入剤だけを処方してもらい、その日は帰りました。

とりあえず3ターム目の就活を進めないとどうしようもないので、ほんのわずかしかない出版社の2次募集と、私学教採を受けることにしました(この時点で公立の教採の受付時期は終わってた)。

また、研究も何か良いデータが出ないかと、かなりのハードスケジュールで行いました。また、このテーマに見切りを付けることも視野に入れ、別の研究テーマでの研究計画書も作りました。これをもって、研究報告会はなんとか乗り切ろう、と考えていたわけです。

研究報告会の前日、ぼくは指導教官と報告会の打ち合わせのために面談をしました。そこで、ぼくの研究計画に対して、指導教官はこう言いました。
「君の研究計画、読んだけど、アカデミアへの貢献よりも君の『良い結果』のために進めるみたいであまり好ましくないな。」
ぼくは翌日の報告会を、わずかなデータとこの計画をもとに進めようと考えていたのに、全てが覆されるような状況となったわけです。

面談後、ぼくはこの状況が飲み込めず、更には翌日あの先生にこのことを伝えなくてはいけない、指導教官は助けてくれるかわからない、大学も卒業できるか分からない上に職も決まってない、そんなことがグルグルと頭の中を巡りました。その果てにぼくの脳内はパンクし、この瞬間、生まれて初めてパニック発作を起こしました。過呼吸を起こし、涙が止まらず、身体全体が熱くなっていく感覚がありました。

このせいで、翌日の報告会はとても出席できるような状況ではなく、その日の夜に心療内科へ行きました。主治医に状況を伝えるとき、手は震え、アイコンタクトをすることが出来ず、徐々に話しながら涙目になっていく感覚を今でも覚えています。主治医は傾聴の後に、いわゆる抗うつ薬を処方してくれました。このとき初めて、「自分って鬱なんだ」というリアリティが一気に高まりました(このときは診断書をもらったわけではありませんが)。

ここまでが8月初週までの流れだったのですが、8月は全くと言っていいほど外に出ることができず、ほとんどそのときの記憶がありません。勤務校のほうは夏休みだったので、生徒にこんな姿を見せずに済んだのは不幸中の幸いだったのかなと思っています。

その後~現在

8月に抗うつ薬を飲み始めたとき、自分にとって楽しいことや成功体験が何もありませんでした。そんな中で自分を救ってくれたものが3つあります。

1つ目は、オモコロチャンネルです。これまで、音MADで有名な動画を除いてあまりオモコロチャンネルは追っていなかったのですが、引きこもりのときに何も考えずに見られるコンテンツとして1番重宝したのがオモコロチャンネルでした。特に食べ物系企画は見るのが気持ち的にすごく楽で、大の大人が子どものようにはしゃぎながら飯を食らっているという姿に元気をもらっていました。鬱の急性期は食欲が全くなかったので、何かを食べないと、と思えたきっかけも彼らのおかげでした。

2つ目は、パチンコです。ギャンブルはこれまでしたことがなかったのですが、地元の友人に誘われて始めました。成功体験があまりにもなかった自分にとって、お金を使って派手な動画や音楽、レバーの震えなどが付随する「当たり」がすごく楽しいものでした。最初期は戦姫絶唱シンフォギアに、その後はエヴァにハマっていました。

パチンコを打ってるときに、この演出が心理学の条件付けでいうところの強化子になってるのかと気づき、これは危ないなとも感じていました。実際、秋口はかなりパチンコに行ってしまい、多いときでは週4のペースで行っていました。ですが、とあるフォロワーさんに叱られて以来回数を控えるようになり、今では2ヶ月に1回のペースに落ち着いてきています。

3つ目は、母方の実家のご飯です。ぼくの母方の実家は大分にあり、祖母は栄養系の学校で教鞭を執ったこともあるバリバリ料理のできる人です。8月半ばにパチンコで大分までの往復の交通費に相当するくらいの当たりを得て、そのお金で数年ぶりに帰省をしました。そこで食欲不振だったぼくに栄養バランスのよいご飯と、好きな食べ物をたくさん用意してもらい、食事を重ねるにつれて食欲が回復していく実感がありました。

抗うつ薬も徐々に効いてきて、そんなこんなで9月半ばから大学に再び通えるようになりました。また、この時期にとあるところから内定をいただき、8ヶ月に及ぶ就職活動に終止符を打つことができたのも大きかったと思います。

指導教官には(パチンコとかを除く)これまでの経緯を正直に話し、例の先生とはなるべく会わないという方向で研究を進めることにしました。また、「8月のパニック発作のときに自分は1度死んだんだ」と思い、気楽に2周目の人生を生きようというマインドで日々を過ごすことにしました。

文章では簡単に済ませていますが、ここに至るまでにたくさんの方々に相談に乗ってもらい、たくさんの方々から優しい言葉かけをもらえたのが1番の救いだったと思っています。また、学校の生徒たちにも「若さ」という強いパワーをもらっていました。

12月・1月は、月報が書けないほど修士論文に追われる忙しい日々でしたが、あの時のように「消えたい」と思うことは全くありませんでした。しんどいけど、これが終わったらもう解放される。近い目標設定を何度も置いて、無理のない範囲で頑張ることを心がけていたからです。

最後に

ぼくは6年前に、幼なじみの親友を交通事故で亡くしています。このときから、自分は絶対に安易に「死」を意識しないようにしようと気をつけて生きてきました。しかし、そんな大きな経験があったとしても、今回のようにそれを意識せざるを得ないことが起こりうるんだと知りました。

鬱のいちばん苦しいとき、頭の中は霧がかかったように真っ白(むしろ灰色に近い)で、ありとあらゆる認知能力や判断能力が低下していました。何かの拍子に自分がその向こう側にいたかもしれないと考えて、今を大切に生きています。

どうか同じような苦しみを持っている方は、どうかご自愛ください。

おわり

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