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「東京ラブストーリー(2020版)」を4話まで見た。

石橋静河みたさに「東京ラブストーリー・現代版」を恐る恐る見てみた。4話まで見たが、意外と言っては失礼だけど、これがなかなか良かったので以下にいくつか章立てで書いてみたいと思う。

赤名リカ
赤名リカは、2020から見ても世紀の大発明と思われるキャラクターだと思う。この作品がなければ90年代に流行した一連のトレンディドラマは存在し得なかったと言えるし、過去30年間のドラマ、映画を見てもこれ以上のキャラクターはいまだに誕生していないのではないか。赤名リカが初めにあったから、女性が自分の欲望を衒いなく話すという女性像を中心にした物語作りが始まった。それくらい赤名リカは突出していた。
そこでまず、鈴木保奈美演じる赤名と石橋静河の演じるそれを簡単に比較したい。赤名の行動の駆動力の設定が薄いと調子の良い軽い女性になってしまい、逆に重くしてフェミニズムをチラつかせると軽快さが消えてしまう。このバランスの作り方が困難だからこそ観客もハラハラするのでキャラクター設定の肝といえるが、オリジナル版は海外帰りというのは定石を使い十分に成功している。一方、その定石を禁じた2020年版は石橋の「ワクワクしたいの!」というセリフに代表される、ワクワク至上主義の女性として赤名を設定している。オリジナル版がアメリカの「文化」を背負っているのに対して、現代版は「性格」に見えてしまうので少し弱いのだが、石橋の演技とも相俟ってなんとか成立させるラインにあると思える(とはいえ、未消化の有給を使ってNYにいき美術館やミュージカルを見て帰ってくるというシーンもあり、赤名が他の人たちに比して海外に近い人という設定は残している。が、20代半ばの女性がNYに行って美術館とミュージカというのはさすがに古い)。

アメリカとの距離感
石橋演じる現代版の赤名は「ワクワク」を求めて行動している。3話の鎌倉の海辺で自分にダメだしをしたように「現状に満足せずに、常に自分を更新する」という指針は、夜の東京を移動する際の歩幅で肉体的に、そして軽やかに表現されており、スポーティや男勝りとも違う、大きなストライドで自分を前進させていく行動原理を見ることができる。
ここ10年くらいで徐々に広まった「常に自分を更新する」という生き方は、アメリカ資本主義が売り出した概念で、令和版・赤名リカはこの新商品をさっそく取り入れ体現しており、物理的な移動がなくてもすでに赤名はアメリカナイズドされていると言える。前章で現代版の赤名の行動原理が「性格」に見えるのがオリジナル版に比べると弱いと書いたが、女性の権利を声高に訴えるより「ワクワク!」をモットーに自己実現することが新たなアメリカ文化なのだと解釈すれば、これこそが現実の反映だと見えるし、赤名の行動原理は正しい方向にアップデートされている(とはいえ、現代版が「性格」に見えてしまう原因もあって、例えば3話で赤名が有休消化のためにいくNY旅行は、美術館やミュージカルではなく、グルテンフリーレストランやサラダバーにいき、ヨガとセントラルパークのランニングを楽しむ、であればもっと立体的にキャラクターを描写できていた)。しかし、正の方向には上手くアップデートできたものの、負の方向にアップデートすることに令和版はあまり上手くいっていないように見える。

弱さの声
オリジナル版・赤名リカには天性のものがあった。それは鈴木保奈美のもつ「声」だ。鈴木は上ずったような高く可憐な声の持ち主で、これが「セックスしよ」などに代表される前のめりな破天荒さと同時に(女性としての)弱さの表現にもなるという二面性を表現していた。そして、この二面性が今から29年前の電波放送に登場した赤名に共感させる機能をもたらしていた(鈴木の続く主演作「愛という名の下に」でも、その声は十分に活かされていた)。一方、石橋静河の声は、この弱さの表現になり得ない。どんなに強い女性でも裏には弱さがないと女性キャラクターがうまく成立しないと言う前提自体が古臭いので令和版はこれでいいのだとも言えるが、4話まで見た感想としては、石橋演じる赤名にはキャラクターの揺れがなく、オリジナル版から弱さの表現を取り除いただけで、その代わりのなにかを設定できているとは思えない(余談だけど、石橋の主演作「きみの鳥はうたえる」も同じ問題を抱えていたと思える)。4話時点では、赤名と伊藤健太郎演じる永尾完治には、この弱さが欠け、清原翔演じる三上健一と石井杏奈演じる関口さとみの方には、弱さが備わっているように見える。これは今後の展開で変わっていくだろうと思わせるが、ここまでに設定していないところを見るともしかしてない?という疑念も抱かせる。

背中を見る永尾(演出1)
ここまではキャラクター設定についての考察だったが、以下ではその設定がどのようにして演出されているかを見てみたい。
 物語冒頭、赤名が見知らぬ男とセックスをした後、東京の美しい夜景を見て振り返り、セックスした相手に対して「もう今後会うことない。なぜならあなたには、もうワクワクしないから」と告げるところから始まる。また、 1話の序盤、思いがけず4人で飲むことになった後、東京駅を背景に永尾が赤名を家の途中まで送る場面、ここで「キスしてほしい」と先走る赤名への返答にマゴつく永尾に対して、赤名は数歩先まで歩き、永尾の方に振り返り「ワクワクしてるの!」と言う。1話前半で2回も出てくることから、振り返って「ワクワク」について話す赤名、は演出者によって明確に意図されており、ここから逆説的に永尾が赤名の背中を見る→振り返る赤名がなにを言うかまでの時間に起きるサスペンスに賭ける作品だということがわかる。そして、永尾が見ている赤名の背中が物語進行の核になっている以上、振り返る前には後ろからのバストショットーそこから同サイズで振り返るということも徹底されている。

隣は空けておけ(演出2)
永尾は赤名の背中を見る人だが、それと同時に待つ人でもある。2話、コンビニで夕飯を買っている永尾のところに三上から電話があり、そこから三上が永尾の自宅を訪れる場面。マンションの窓外からロングレンズでベランダにいる三上、屋内の椅子に座る永尾という位置関係を導入し、ビールをもう一缶取るために画面奥のキッチンに向かう三上の動きに合わせてカットしてカメラは部屋の中に、そのまま緩やかなドリーインでカメラは部屋奥に進み、二人をいれるのに十分なツーショットにする。画面奥のシンクに凭れて缶ビールを飲む長身の三上が少し見下ろすように、手前のダイニングに座る永尾に対して、永尾が関口を振ったことについて問いただす。カメラがゆっくりとドリーインし続けて三上を画面外に出し永尾のシングルショットになると、永尾は「(先日のバスの中での関口への告白は)酔っ払っていただけで(真意ではない)」と三上に告げる。このとき永尾は三上と視線を合わせることができず(三上は画面外にいる)、下を向いて三上に健康に良くないと言われたコンビニ弁当と向き合っている。永尾の返答を聞いた三上が画面奥から歩いてきて永尾の横に座り、自分(三上)が関口と付き合ってもいいかどうかを確認する。このシーンは永尾が、物理的にも精神的にも徐々に三上に距離を縮められ、最終的には隣のスペースへの侵入を許すまでを入念に演出したシーンだが、それ以外にも会社のエレベーターを待つ永尾に後から会社に着いた赤名が来る場面、レストランで飲んでいると、その隣に後から来た赤名や三上が来る場面、あるいは会社で仕事をしていると上司の和賀や同僚(モジャモジャヘア)が飲みに誘う場面など、永尾は徹底して待つ人―そしてその隣に誰かが現れる人として描かれる。

3話の急転
不安要素はあるものの演出は徹底されており、上々のスタートを切った東京ラブストーリー・現代版だが、3話から突如趣が変わる(そもそも3話から急に演出も撮影も変わったのなんなん?という話しをツイッターに収まる程度に書こうと思ったら、こんな長さになってしまった。そしてNOTEに初投稿までしてしまった)。演出1で見たように、永尾は赤名の背中を見ながら、それが振り返るかどうかを待つサスペンスが演出上の核だった。その点では、3話前半、食事中に三上と関口が付き合ったことを知ってしまった永尾を案じた赤名が、機転を利かして仕事のトラブルだと偽って店を退出し夜の街を歩くシーンの終わりは、1話ラストの東京駅を利用した撮影の美しさとは雲泥の差なロケ選び、カメラの動きの雑さ、背景のボケの作り方の失敗など、主に撮影面での出来の悪さが際だったとはいえ、辛うじて別れを言い出した赤名の背中を見送る永尾という演出上の連続性だけは生きていた。
 
(話しは一瞬ズレるが、3、4話の撮影クオリティは酷く、クレジット確認したところ1、2話と同じ撮影者なので、なんとも不可解だ。演出家が変わったとは言え、同じ撮影者、同じ体制でここまでクオリティが変わるものだろうか。邪推だけど、演出家は手持ちでやりたいと言ったけど、カメラマンは手持ちでやりたくない、の相違が徐々に大きくなり修復不可能なくらい関係が悪化したとか。それだけでなく、1話ではソフトかつ適度にコントラストのあるライティングが室内の登場人物の顔を美しく照らしていたにも関わらず、3、4話では備え付けの照明全開でコントラストがバラバラ。また、せっかくの鎌倉の海岸に落ちる夕日の場面も、ベストではない時間に撮影しているため、石橋静河の顔に正面から強い夕日が当たり、ハードかつコントラスト・ゼロという、かなり醜い代物になっている。1、2話の撮影を楽しく見た私としては、3、4話は満足できる出来のカットがほとんどなく、4話ラストの三上の顔が電球に掛かったカットは開いた口が塞がらなかった。)

しかし、3話のラスト、NY旅行から戻ってきた赤名と半日を過ごした後、自分の赤名への好意に気付いた永尾が愛を告白する場面。3話前半での夜の街で見送るしかなかった赤名の背中を思い出せばこそ、ここは告白するしかない!という演出的な組み立てがあるはずなのだが、永尾が赤名の背中を見るカットがないまま、永尾の「やっぱりさ!」の声と同時に赤名は振り返ってしまう。この振り返りの時点のサイズはミディアムなのだが、その直後から永尾が赤名と過ごした楽しい時間の回想が挿入され、回想が終わりの赤名はすでにクローズアップになっている。赤名が振り返る時点では、永尾の愛の告白に対して、この奇想天外な上司の返答がどう転ぶかわからないという一瞬のサスペンスが生まれる余地があったものの、回想終わりにクローズアップになっていることで、この後、二人が抱き合うことが、抱き合う前からわかってしまう。なので、続く赤名が永尾に駆け寄って抱き合うシーンも驚きがなく、ひたすら間延びした時間が続くことになる(ここでの撮影もグダグダで、そもそもロケ地のフェンスの灯が明るすぎる上に登場人物の目線上に入るので美的にイマイチ、意味もなくイマジナリーラインを割る、決め絵だったはずのモノレールが上を通過する瞬間のワイドショットも編集の呼吸がいまいちで決まらない、など前半最大の見せ場をことごとくダメにしているのが残念でならない)。

横に並んではならない、ましてや背中は論外(演出3)
3話で晴れて付き合うことになった永尾と赤名は、4話後半で三上の所有する車を借りて鎌倉/江ノ島までドライブデートにいく。演出1、2で見たように永尾が赤名の背中を見ること、自分の横に空いた空間には次々と誰かが入り込んでくることが物語上、そして演出上の基本だったが、この一連のデートシーンでは赤名が常に永尾の横のスペースを占有し、永尾は赤名の背中を見ることもない。二人はすでに付き合っているのだから、赤名が永尾の隣のスペースに居続けることは当然だ。しかし、永尾が赤名の背中を見ることを止め、自分の隣に最初から誰かがいることを当然と思い始めれば、そこには当然悲劇が待つ。ドライブデートを終えて三上の家に戻った2人は、関口による手作り料理を食しながら4人で楽しい時間を過ごす。食事を終えると東京の絶景を見下ろすベランダにて会話を続けるが、ここで酔った永尾は迂闊にも赤名に背中を見られてしまう。二人の関係は永尾が赤名の背中を見るか、正面で見つめる、辛うじて横並びになるが認められるだけだった。横に並んだだけでも永尾は撤退戦なのだが、ドライブデートが楽しすぎたのか、振る舞われた関口の手料理やアルコールが美味しかったのか、永尾は完全に油断したと言わざるを得ない。案の定、世界の掟を破った永尾には関係の崩壊が待っていた。ここで永尾は赤名の背中を見ることすらできない。赤名は高架の上を歩いているが、永尾にとって上を見上げることは要求が高すぎる。結果、永尾は赤名を見失い、4話が終わる。


5話以降
前出の4話後半のデートシーンは、即興演出により俳優の内面から二面性を奪い、通り一辺倒の感情表現になった演技と、それを意図なくホームビデオのような画角やサイズで「押さえる」だけで撮影した自堕落なものだった。まずは演出者の交代が望まれるが、5話の演出者が、永尾だけが特等席として見ることができた赤名の背中を、どうやって再び見れる位置に戻していくのか。その手腕に期待したい。物語が続く以上、永尾は赤名と再開するだろうが、それは赤名が永尾の隣のスペースに入ってくることから起きるのか、そして永尾は再び赤名の背中を見ることを許されるのか、今後の展開を楽しみに待ちたい。