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肩の荷が一つ降りました
50歳代後半から終活を始めています。
どうしても生きているうちにお礼が言いたい人がいました。
それは、若い頃にお世話になった個人塾の先生です。
その先生と本日会って、お礼を言うことができました。
嬉しくて泣きながらこの文章を書いています。
かれこれ40年前の話です。
その塾はその先生1人で教えていました。
私は、高校3年生で両親から言われていた国立大学の合格が果せませんでした。
そこで静岡の実家を飛び出し、19歳と20歳の2年間を横浜で新聞奨学生をしながら浪人していました。
新聞配達や集金や勧誘の仕事と受験勉強が両立できず、結局21歳で静岡の実家に帰ることになりました。
そこで、高校時代に夏季講習を受講した塾の先生に相談したところ、その塾で講師として雇ってくれることになりました。
講師はその先生と私の2人だけです。
午前中は実家で勉強。午後は塾で勉強と講師として授業。夜は塾で勉強を続けていました。
母親はご飯を作ってくれませんでしたから自分の食事は自分で作っていました。
夕食は塾の近くのほっかほっか弁当で買って食べていました。
夜中に、短波放送で旺文社のラジオ受験講座を聞きながら勉強していました。
同じ静岡出身の数学の寺田文行先生の授業がとても好きでした。
その塾はとても居心地が良く、その塾の卒業生で予備校に通っていた後輩たちも、予備校が終わると塾で勉強をしていました。
英単語を覚えるときには、後輩たちと競っていました。
赤本を解いて分からない問題があると先生は親切丁寧に教えてくれました。
勉強の合間には、塾に卓球台があったので、後輩たちと卓球をしたり、近所の公園でソフトボールをして息抜きをしました。
その甲斐あって、1年後には国立大学に合格することができ、再び故郷の静岡を離れることになりました。
あのときに、先生が私を塾の講師として雇ってくれなかったら今の自分はありません。
大学生でもない私を講師として雇ってくれたことに本当に感謝をしています。
大学の受験料も東京に受験に行く交通費も講師代で稼ぐことができました。
あれが転機で、私の人生が上向きになりました。
当時の私は21歳、先生は34歳。
それが40年経過したのですから私は61歳、先生は74歳です。
先生は50歳を機に経営していた塾を辞めて、趣味であった鳥の監視員を仕事としたそうです。
野鳥の会に入り、鳥の写真集も出版していたので、私は先生の消息を知ることになりました。
HPに写真を掲出していたので、そのHPを見ていました。
先生は全国のバードフェスティバルに作品を出展していました。
たまたま近所の会場に出展することになり、私がサプライズで訪問したのでした。
先生は、「あっ!」と驚きましたが、すぐに私を思い出したようです。
2時間も話し込んでしまいました。
2時間なんてあっという間でした。
私は、3日前から悩んでいました。
少し高価な菓子折りは用意しました。
どんな感謝の言葉を言おうかずっと悩んでいました。
良い言葉が見つかりません。
先生は、来年から後期高齢者になるので、鳥の監視員の仕事を辞めるそうです。
車を運転してあちこちの山を飛び回るのは疲れたそうです。
老人性の精神的な病気になり、気力が沸いてこないそうです。
自分の死を意識する言葉でした。
先生は「これが今生の別れになるだろうな」と言い始めました。
私の口から、「あの時、先生が救ってくれたから今の私があります。感謝しかありません。ありがとうございました。」と自然と出ました。
私の心が口を動かしたのだと思います。
いろいろと考えた言葉など吹っ飛んでしまい、心から言葉が出ました。
先生はニコッと笑っていました。
人生の恩人に感謝を伝えることは、人として必ずやらねばならないと思っていました。
それが本日できたことは感無量です。
糸が切れた凧のような私の人生は、誰かの助けで成り立ってきました。
口下手の私は自分の気持ちを伝えることが苦手です。
人生のラストスパートで、恩がある人には感謝の言葉を伝えていきます。
本日は長々と文章を書いてしまいました。
読んでいただきありがとうございます。