「貧乏暇なし」は幸せなことだと思う
この時期になると以前の職場で働いていた人が早期退職する連絡が来ます。
元同僚の何人かが定年を待たずに早期退職をします。
人生はいろいろ、価値観もいろいろですから、その人の人生の決断を歓迎します。
元同僚と言っても、退職してからも交流する人はほとんどいません。
職場の人間関係なんてそんなものです。
会社の人間関係は、効率良く組織が機能するための命令式伝達系統に過ぎません。
ヒエラルキーの上下関係だけです。
組織を離れたら、しょせん独りぼっちです。
元同僚の退職の連絡ついでに、昔の仲間とLINEでやり取りをすることがあります。
何人かから「私は貧乏暇なしです」とメッセージが返ってきます。
すると、私はこう返すようにしています。
「暇がないというのは仕事があるということ。仕事があるというのは社会から必要とされていること。社会から必要とされていることは幸せだと思います」
私の元部下の父親が電通でバリバリ働いていて、60歳で定年退職した後に、やることがなくて精神疾患にかかり、結局仕事に復帰したと聞いたときに、恐らく私も同じようになるなと感じました。
定年退職してから、旅行や趣味に時間を費やすというのも良いことです。
しかし、私は飽きてしまうような気がします。
自分のために時間を費やすことは必要です。
しかし、社会から必要とされている実感がないと、生きている実感がわかないような気がしています。
「あなたがいて良かった」と言っていただけることに喜びを感じます。
承認欲求の押し付けなのかもしれません。
ひょっとしたらボランティアも自己満足の押し付けになるかもしれません。
若いときのように、出世をしたい、金が欲しいというギラギラしたモチベーションはありません。
豪邸に住みたい、高級車を乗りたい、ブランド品を身に着けたいという欲求もありません。
人生の最終コーナーは、自分の人生の意味付けとして、自分の存在価値を認識して最期を迎えたいと思います。
自分の存在価値って何だろうと思うことがあります。
自分の人生で一貫してきたことは「一生懸命やること」だと思います。
これを否定したら、これまでの自分の人生の意味が崩壊します。
今まで仕事を一生懸命やってきました。
仕事以外で一生懸命やれることを探していますが見つかりません。
ただ、仕事を一生懸命やれる環境を与えてもらっていることに感謝です。