【ネタバレあり】【デビルマンcrybabyレビュー】

愛は無い。愛などない。故に悲しみもない。

そう思っていた。

「違う、了ちゃんも泣いてる!!」

さて、Netflixで公開されておよそ2か月、自分もやっと視聴完了しました、デビルマンcrybaby.。

デビルマンcrybaby 公式ページ

http://devilman-crybaby.com/

漏れ聞こえてくる情報から漫画版デビルマンをベースに表現的にもかなり忠実に制作されているらしいとの感触を得て、だいぶ期待しながら視聴しましたが、期待通りの作品でした。

公式ページでもデビルマンの系譜と題してページが割かれている通り、源流となる永井豪版デビルマン、その系譜の最も新しい所、そして最も源流に近い所に名前を連ねる事を意識して作られたのだろうと思っています。

その事をイメージしてもらうために、まずは漫画版デビルマンのあらすじを把握した方が良いでしょう。

デビルマン(Wikipedia)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3

ちなみに、僕はTVアニメ版含め、デビルマン関連の映像作品は全く触れてきていません。(なつかしアニメ特集で目にした程度)

そのため、これから書く内容にはアニメは全く関連していないこと、あくまで僕の記憶の中の漫画版デビルマンを踏まえた上での内容となる事、ご承知ください。

まずは、大枠の話をしましょう。

全体的に設定の組み換えは思ってたよりもありました。

本筋に関わる所で言うと、飛鳥了が悪魔の存在を知ったのは父親の影響ではなく、とある教授に呼ばれた事がきっかけであった事や、人間の中に悪魔がいるという公共への呼びかけを含め、悪魔が人間を滅亡させるための事象の悉くが彼の手によるものとなっています。

これは漫画版との一番大きな違いと言えますし、結果的に無意識に、根底にあるモノが行ったと言う飛鳥了というパーソナリティ、モチベーションを説明するのに必要な組み換えであったと思います。

すなわちそれは、デビルマンcrybabyという物語における一つのテーマへの説得力を持たせるために必要な工程でした。

それは後述する事にしますが、この一つのテーマに絞って考えてみると、原作からの組み換えについても非常に納得のいくものとなります。

そして、僕が原作のデビルマンとcrybabyの相似性、crybabyが原作への敬意を持って制作されていると感じた事が2点。

人間の悪意の広がりに対する思考実験を現代として再咀嚼した事、そして原作のデビルマンに対して僕が感じた衝撃、人間の悪意の果て、その残酷さを真っすぐに描いてくれた事です。

もちろん、そこには少しの疑問符が付きます。

果たして、現代社会(特に日本という国)において悪意の広がりの果てにあの様な行為(串刺しスタイル)が行われるのだろうか、という事。

狂気の果てにあの様な行為が本当に行われるのかはわかりません。

行われないかどうかも、分かりません。

が、現代日本社会においてあの行為が風俗的に見聞き出来るレベルで認知されているとは思えなかったのですよね。

そこには一つ好意的な解釈として、思考実験の果てに結果として漫画版と同じ行為に行き着いたという事ではなく、漫画版を原作として描ききると言う事を目的として、ある種アイコン的に「デビルマン」という作品の悪意のおぞましさの表現の完成形としていたずらに変える事なく採用したのだろうという事で納得しようと思っています。

そして、crybabyにおいて漫画版と違う、付け加えられた一つのテーマについて。

かつて、漫画版デビルマンを読んだ当時、悪魔との対比の中で、本当に怖いのは人間である、という文脈でしかこの作品を読むことが出来ていませんでした。

そこからの比較、となりますが、今回のデビルマンcrybaby、その根底にあるのは冒頭の飛鳥了の独白からも伺える通り「愛」であり、主人公は不動明ですが、この物語は飛鳥了のための物語であったとも思えるのです。
そして、その事により漫画版とcrybabyの間に決定的な違いが現れます。
それは、劇中で様々に描かれ、徹底して提示された愛の形、その極めつけとして、飛鳥了が愛を獲得するまでの物語として描かれた事です。

それは、提示されてきた愛の形の上位概念としての愛と言いたいわけではありません。

飛鳥了の愛の形を描くために、セクシャリティもパーソナリティも含めた愛の形を提示する必要があったのだろう、という事です。

物語の中で語られる様々な形の愛、その悉くが不動明というフィルターを通して飛鳥了に語られます。

そして、その悉くを不動明の目の前から排除しようと、あるいは明に人間の愚かさ、脆弱さ、醜さを突き付けるための布石として利用しようと試みます。

愛など無い、愛があるとも信じてない、けれども明は自分の側にいて欲しい、そんなエゴが混ざった行動が、不動明という存在を、その人格を彼の手から零れ落ちさせます。

失くしてから初めて知る愛というもの。

言葉にすると陳腐ですが、そのための布石は随所に描かれています。

彼が初めて出会った人間という存在、その原住民の在り方で人間というものの価値を覚え、そしてその反面ともいえる敵としての人間の存在も知り、敵性存在から逃げた先で出会った、少年不動明の優しさ、抱擁。

その心の交流の中で、人間飛鳥了の中に愛の種が植えられていたのではないかと思うのです。

それが、最後になって芽生えた、と。

劇中でも描かれている通り、人間飛鳥了とサタンとしての飛鳥了の言動が混じり、アンビバレントな存在として最終的に提示されます。

最終的に人間飛鳥了としての人格が愛を覚え、サタンとしての飛鳥了に影響を与えたのではないか、彼もまた、デビルマンとしてサタンとしての人格を超越する事が出来たのではないか。

飛鳥了もまた、愛によって泣く事を覚え、不動明と同じく、crybaby、デビルマンcrybabyとなったのではないか。

そう思えて、初めてタイトルに納得し、ただ原作をなぞるだけでなく、本記事冒頭に記述した通り、原作に一番近く、しかし原作の系譜の最新に名前を連ねるにふさわしい作品であったと思えるのです。

と、ここまで書いた後に永井豪先生と湯浅監督の対談記事を読んで、あぁ、もうこれで良いじゃない、全て笑顔で納得できるじゃない、と思ったのは内緒ですというオチwww(以下URL)

http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1801/15/news095.html

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