4月中旬 人生のバックパック、荷物のバトンタッチ
歩いていると体が聖性を帯びてくる感じがする。苦行であればあるほど巡礼者の気持ちがわかる。
5月から働く予定の会社面談があった。自由な社風が魅力で、歩合制なのではっきりわからないが給与も上がりそうだ。新しい仕事を始めるにあたっては、時間を確保しないといけない。そのために時給制の仕事を4月末でやめることにした。
時間など全体リソースの上限が決まっていているものの中で、やりたいことが多すぎてやりくりをする必要があるとき、人間は己のキャパという問題に直面する。
己のキャパシティという概念をハッキリと認識するようになったのは大学3年生の時だった。当時私は忙しい学業とやりたいことの板挟みで病みに病んでいて、なんならどちらも手につかずに家にこもって寝続けていた。通っていたのは工学部なのだが、理系の学部はとにかく実習が多い。実習系の授業ではテストの代わりにレポート提出によって修得率を測るため、授業に出て手を動かした後は忘れないうちにレポートを書かなければならない。この実習レポートという課題自体は工業高校時代に慣れ親しんだ旧敵であったのだが、大学レベルになってしまうと計算精度が上がったり考察に用いる文献が難しくなったりしてとにかく時間がかかった。そうしてやるべき課題は溜まっていくのに、生活費のためのバイトはしなければいけないし、趣味の水彩画に時間を割きたいしで(結局この水彩画の趣味は長持ちせず上達しなかったが)とにかくてんやわんやだった。今ならどう考えても時間が足りていないとわかるが、当時の自分はそれが努力不足だと思いつめ、一方で作業効率は落ち、大学も休みがちになり、何もしないような日々に落ち込んでいった。
私が通っていた大学には学生支援の一環として無料のカウンセリングサービスがあった。とにかく現状を打破したいという気概だけはあったので、そこである程度ありのまま悩みを打ち明けた(本当に深刻な悩みは他者に話せないが、とにかく直近の課題である時間のなさと焦りについて話した)ところ、カウンセラーの先生はそれをキャパシティの問題だと指摘した。実はこの瞬間まで私はキャパシティの問題だと考えてもみなかったし、口ではそうかもですねとか言いつつ本心では受け入れられなかった。私は現実問題、完全にキャパオーバーで心身に不調をきたしていたにもかかわらず、とにかく時間は努力で作れると考えていたのだった。そんな思考の人間に突き付けられるキャパオーバーという事実は、自身の能力について指摘されているように感じられプライドを傷つけた。
キャパに関する考えについて、最近の私はある程度まとまったモデル化をするようになった。当時の私はキャパというものが個人の才覚によって決まる定数であり、この数値が少ない人間はなにもすることができない、日々の労働にキャパを消費して生活を実行するだけのマシンだと考えていた。しかし徐々に活動量を回復させていくにしたがって、キャパシティが変数であるという確信に至ったのだった。するとカウンセラーの言っていた意味も変わってくる。つまり当時私が受け取った意味は、「自分のキャパシティ(定数)を考えて行動を取捨選択し(趣味を諦め)なければいけないよ」だったのが、「自分のキャパシティ(今現在の自分が持てる最大容量)を考えて行動を取捨選択(キャパオーバーによるうつ症状等のペナルティを回避)しなければいけないよ」に再解釈されたのだった。つまり個人が努力できるキャパシティはその時かかわっている仕事や幸福度によって増加していく変数であり、これを超えての頑張りは心身に悪影響を与えるため、ぎりぎり超えないように工夫しながら仕事を続けてエンジンを温めていくゲームだったのだ。
これって去年流行ったバックパック系のゲームに似ている。自分のバックパックは有限なので、中身をより価値の高いものに交換しながら前に進んでいく。進めば進むほどバックパックも大きくなっていくので複雑な組み合わせが可能になる。
とにかく4月末で私はアルバイトを一つ捨て、より価値の高い仕事を拾うことになる。さっさと鞄を宝石で満たし、次の面に進みたい。