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4月下旬 多忙ニキ(言語思考者)


思考ってなんだろう

ものを考えるときに言語ベースなのか、ビジュアルベースなのかは人によって異なるし、それぞれ長所短所あるから尊重しようねという動画を見た。ゆる言語学ラジオはいつも取り上げるトピックが興味深くトークもうまいので感服します。

”思考”という単語による言語思考の弊害

言語思考と視覚思考の話はちょくちょく小耳にはさんでいたが、そのたびに自分は少なくとも視覚思考ではないだろうな~と思うだけだった。考えが画像や絵図となって浮かぶなんて想像もできないので、そういう人たちは抽象的な考えが得意なのかな、いいな~といった感想だった。
しかしこの動画(3部作)を視聴するにつれていろいろと考えることが出てきた。まず、自分は視覚思考じゃないと思っていたが、言語思考とも言い難いかもということだ。とにかく思考という単語が不当に考えを狭めているような気がする。人間の脳機能の営みってそんなに単純だったろうか?外部との関係性に基づいて3つに分類すると(これも単純すぎる分類だが)、外部からの情報取得が含まれる”受容”、脳だけで完結する”思案”、外部への出力が含まれる”表現”といった具合か。失礼ながら原著を読んでいないので想像になるのだが、言語/視覚思考というときの思考という語は、このうちの思案についてのみスポットライトを当てている気がする。外部情報に触れない・外部情報に変換していない状態の、純粋な情報であるクオリアを取り扱うフォーマットが画像形式かテキスト形式かという話だろう。

思案と想念の違いについて

自分はどちらでもない。扱う情報によるとしかいえない。道順や映画の構図のように、映像のほうが考えやすいことはそうするし、学問や小説のように言語化された媒体に接するときも想像しやすい/想像したいほうであつかっている。それとは別に、何のフォーマットにも属していない状態もある、いわば電気信号のような状態だろうか。

受容、思案、表現におけるフォーマット

持論だが、この電気信号によって形成されるクオリア状態で思案することはできないと考えている。もちろん想念が夢のように次々と浮かんでくることはあるが、その間に論理的なつながりはないのでそれは思案というよりもインスピレーション、霊感といったほうがいいだろう。
こうして浮かんだ想念について論理的なプロセスを積み重ねてより洗練されたアイデアに昇華するには、自分に合ったフォーマットに落とし込む必要がある。言語思考/視覚思考とはこの段階なのではないだろうか。もちろんこれは外部への表現と全然関係のない状態なので、自分の思案しやすいフォーマットでこねくり回せばいい。

視覚思考者のハンディキャップ

動画のコメント欄でも紛糾しているトピックとして、視覚思考者の不遇という話がある。上のフォーマット図でいうと、外部への表現時に求められるフォーマットとして言語がマジョリティであるため、視覚思考者はまず言語思考に変換してから綺麗な言語としてアウトプットするための能力を発揮するというめちゃ大変なプロセスを踏まないといけないというもの。この社会で求められるフォーマットが言語だというのは、マジで仕方ないとおもう。言語とはコミュニケーションに特化した記号であるし、科学の発展はこの言語および専門的な記号のコンビによる精緻なコミュニケーションなしでは不可能だという事実がある。思想の状態でコミュニケーションできないというのは多分原始的な問題であり、それを解決するために言語が体系化されたのであるため、今更それが不公平というのはコミュニケーションの放棄というしかない。言語でしかコミュニケーションができない、社会とはコミュニケーションによって形成されるしコミュニケーションそれ自体が目的になりうる団体ということ、この2点から、社会の仕組みを変えるのは不可能だろう。もしもこの言語思考・視覚思考が生まれつき決定されるものであり訓練によって容易に習得することができないのであれば、それは社会的なハンディキャップなのだから多様性保護の観点から社会による支援が必要だ。

思考とアウトプットの組み合わせ

それはそれとして、思考が言語的か視覚的かという話と外部へのアウトプット技術は別問題だということ。
視覚思考者であっても絵を描く訓練を積んでいなければ当然思考をアウトプットすることはできないし、言語思考者であっても文法を知らなければまともな文章が書けない。ここで、言語というフォーマットが非常に圧縮された媒体だということと、日本語や英語といったように細分化されているという問題が効いてくる。視覚思考者はビジュアルを思い浮かべるらしいが、りんごの画像ファイルは”りんご”というテキストファイルよりも容量が大きい。もちろん視覚思考者がどんな特徴を持った、どんな解像度の画像を浮かべるかはわからないし、言語思考者がいくつものワードでりんごを形容する可能性もあるが、想念を言語で表現しようとしたときに、言語とは単語を組み合わせたものであるために一旦単語に変換する必要がある。問題はこの単語というフォーマットがそれひとつでは画像に比べて単純すぎるということだ。視覚思考者は膨大な情報をもつ自らの視覚的想念を、この単純なワードの組み合わせに収斂するという作業を行う。これはふつう、難しい作業だろう。もちろんコミュニケーションに必要な最低限のクオリティであれば可能だろうが、そのたびに視覚思考者は自らが本当に思い浮かべた情景の解像度を落とすという苦痛を味わう。この情景をそのまま、多弁にならずに伝えるというのは小説家などプロの仕事だ。

忙しいが口癖かも

最近、過去の自分の週刊日記を見直した。といっても1月からしか書いていないので大して昔のことじゃないんだけど。
なんかずっと忙しいとか言ってて怖かった。今も言ってるからね!別に対した立場にある人間じゃないのにやりたいことが多すぎてクソ多忙になってるのアツいっすね、という感じ。好きな作曲家のmaretuさんが書いたコインロッカーベイビーで能動的に忙しいという歌詞がでてくる。昔これはサークル活動や自己啓発活動に奔走している大学生を形容しているのかと思って冷めた目で見ていたが、定職についていない若者や自分で仕事を受注する必要のあるフリーランスなどとにかく体力と可能性が有り余っている若者全般を形容していたのだなぁと。
忙しいこと自体は別にいいことだと思っている。前回書いたことだが、人間には可変のキャパシティがついていてそれをどれくらい有用なタスクで埋めるかのゲームだ。忙しいというのはパンクしていない範囲であればむしろ健全にキャパシティを埋めているということであって、筋肉みたいにキャパを超回復させる効能もあるだろう。でもよくよく思い出してみると現実の友人に多忙を愚痴ることが多かったかもしれない。不安なのはわかるが、愚痴を聞かされる友人の気持ちを考えなさい!すみません。やるべきことにしっかり確信を持っていれば愚痴なんて言わない。気を付けます。

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