火の哲学、反反省、対話の向き
三日はSさんと飲みに行った。歳の初めにふさわしい狂宴(?)であったが、対話や問いという、私が分を弁えているところの観点からそれを思い出して考え直しながら書いてみようと思った。そうしたら、案の定、長くなった。色々削ろうかどうかと考えているうちに、2日も経ってしまった。これを全て読んでもらえると思えるほど私は楽観的でありたいのだが…、まあ、とにかく、目次は作った。そして、google document で読めるようにもした。
目次
1 火の哲学
ツァラトゥストラのカンテラ
知性的探求における感性的成分の帰属は曖昧になるのか?
2 反反省
メタダイアローグの目的
違和感は問いと答えにひたりついていないということからくる
問いをすりかえるのは見かけだけの知性的態度
3 遠ざける対話
私はルソーと対話について対話したい
ディスロゴス
対話はコミュニケーションの一種ではない
”最初の欲求の自然な効果は、人々を近づけることではなく、遠ざけることだった”
対話の原初形態の一つは「他者を遠ざける」ことを目的とする 5
表出説再考 他人を遠ざける表出
内的対話と外的対話
補足:ルソーの見解
ツァラトゥストラのカンテラ
ハイデッガーは最終的には、Geist精神とは火、炎、炎上、燃焼である、と答えている、とデリダは読解する(『精神について』p137)ことに私たち二人も焚きつけられて、Geist, Ghost, Gas, などの話をした。例えばニーチェのGeistはこんな感じじゃないか、と。つまり、ツァラトゥストラが真昼間にカンテラを持って出てきて、「この火と同じやつを探している」と言いたげではないか。つまり、その火で何かを照らそうとしているのではなく、真昼間でもそのカンテラに火が灯されていることの分かる奴が誰だか探しているのではないか、とか。
知性的探求における感性的成分の帰属は曖昧になるのか?
ところで、先の段落のことは、これはほとんどSさんが言っていたことだったことかもしれない、と書きながら疑い始めた。私が自分で言ったことと聞いたこととの区別が、記憶の中では明確ではない。共同的思考の探求であったためなのだろうか、概念や思考や推論が、対話者のうちの誰に属していたのかが、記憶の中では曖昧になっていると想起しながら気づいた。これは興味深い。相手の理解できない主張や発言はその声だとか身振りだとかを覚えていることが多いが、概念や思考や推論といった知性が捉えるものどもは、「誰に」とか「どの時点に」とか「どの場所に」属するのか、ということの記憶の感性的成分が曖昧になるという区別があるとしたら興味深い、ということである。このことについてはもっと考えるべきことがあるような気がする。つまり、知性的探求の対話であることが原因で、知性が捉えるものどもの感性における帰属が曖昧になるということが起こるのか?これに対し、裁判における問答ではそもそも知性が捉えるものどもで何であれ、誰に帰属しどの時点に生起したかを確定するだけに主眼が置かれる。だからこそ、言われたことや考えられたことが、誰に属するとかいつ生起したとかいうことが曖昧になることは滅多にない。このような違いがあるのは何故なのか。
他にもヘラクレイトスの火は?プロメテウスの火は?エンペドクレスの火山は?プラトンの第7書簡の飛び火は?善のイデアと太陽は?など繋げて考えたいことが沢山あった。いつもより早く閉店の時間が来たらしく、わりとすぐ出て行かなくてはならなかった。それと同様に、私もこの場所での対話についてはこれまでにしておこう。
違和感は問いと答えにひたりついていないということからくる
この違和感は一体どこから来るのか?私の答えはこうである。ダイアローグであれメタダイアローグであれ、問いと答えの形式に付き従わねばならないという点で全く何も異なるところはない。ダイアローグとメタダイアローグとを区別したからどうなるとかこうなるとかいうことは対話にとっても哲学にとっても何も重要なことはない。つまり、メタダイアローグが対話について「反省的である」(ああ、私はこの「反省」とか「メタ」とかいう言葉が表層的に使われているのが非常に不愉快なのだ!)からよりいっそう哲学的であるとか対話の本質にかなったものである、とかいうことは決してない。反省的であるとか、重要な何かを読み出すとか、そういうことだけでもって哲学的であるとかいうことには決してならない。哲学的であるかどうか、対話の本質に迫るかどうかは、その主題が何であろうと、問うこと、答えること、これだけに集中し終始するかどうかである。それがすべてである。対話が哲学(哲学的ではなく、哲学)であるかどうかは、主題や手法によっては決まらない。問いと答えの純度が、それだけが、対話を哲学的にするのである。その他のものの一切は全く無駄なことであり、それをどれほど除去できるのか。このことが、対話を哲学的にするかどうかを決めるのである。はじめからある問いと答えのその形式に全面的に依拠してその他のものにとらわれない、ということだけが重要なのだ。知的徳だのパレーシアだのセーフティだの、そういったものを初めから持ってきて対話を哲学的にしようというのは愚の骨頂なのだ。このことを寸分も理解しない人がどれほどいることか。
と、書いてみて、すでに二件目の早い段階から酔っ払っていたのだろうか、私が前段落(「この違和感は」から始まる段落)のことをその場で話したのか、Sさんが話したのか、ということをほとんど覚えていない。そもそもそんな話はしなかったのか。二人で話したことを思い出そうとしたことが私をして以上のように書いているときに考えさせたということなのか。実際には何を話し何を話さなかったのか、それを私の記憶だけを頼りに確定することはできないとすれば、私はそれ以上このことに固執すべきではないだろう。それよりも、この「違和感」について私の言い得るところをもう少し述べる。一般に、違和感を解消しないで保持し続け観察することは、表層だけのメタダイアローグや反省を行うことよりもずっと対話を哲学的にしてくれると思っているからである。そのことを言いたい。というよりもそのことが見失われていることを、次のように言いたい。
問いをすりかえるのは見かけだけの知性的態度
メタダイアローグの際にダイアローグの背後の何かを読み取ろうとしたり、舞台裏を暴こうとする人々に共通して見られる特徴は、立てられている問いの後ろに回って問いを別の問いとすり替えようとする、見かけだけの知性的態度であり、ちっとも知を求めるものの態度でない、ということだ。対話の最中にこうした非対話的態度がとられ、しかもそのこと関して自覚的でないこと(つまり無知そのもの、無知の知ではなく)が看取されるがゆえに、そうした場面にしばしば遭遇して私は苛立たしく思っている。
要するにこうした態度は、対話中の非対話的態度という矛盾的なものであり、それはしばしば起こっている、ということを「すべての人が」(無論私を含めて)常に自覚的であるように努めるべきである、と私はあえて強弁したい。そして、あえてこう言う。ある問いのメタ的視点を取ることは、非哲学的な態度である。「メタレベル」に潜り込んだり、「メタ的視点」に身を交わすことは、総じて「半」哲学的でしかない。それだけで哲学になるはずがない。いかなる些細な問いをも馬鹿正直に引き受けたほうがよほど哲学的なのである、と理解する方が真っ当である。「振り返り」とか「メタレベル」とかは、猫じゃらし程度のおもちゃにしかならないことをよく知った方がいい。
何度もバカの一つ覚えのように繰り返すが、問いが提出されたならばそれに答える、という単純なことをすべきだということだ。その問いが出された背景だの、問いの意図だの、問いが出てきた状況だの、そういった無駄で余計なものを、あえて度外視して、底抜けのバカを思わせる(テアイテトス174C-D)くらい、問われたことに答え、不思議に思ったことを問い尋ねればいいだけなのだ。問いの背景を問うとか、問いの意図を知る、などというのは、哲学の問いを持たないで哲学研究ばかりするのと同じ程度に重要なことと考えるべきである。(人はこれを皮肉だと理解しないだろうか。)
肉バルも年明け営業で9時閉店ということだった。ケチや文句もこれくらいにしとけ、ということだったのだろうか。それにしても、赤身の肉をムシャムシャ食べ、赤ワインをガブガブ飲んだが、今思い出せば、赤ワインの赤、肉の赤身=赤みは、火が通っていないにもかかわらず、火のようにも思われてくる。わたしたちは、じつは食べられないはずの火を食べてしまっていたのか?じつは飲めるはずのない火を飲んでしまっていたのか?血と肉の赤さが、火と似ているとどうしても思われて仕方がなくなってしまったのだが、これをどうすればいいだろうか、とか思いつつ、次の場所のことに移ろう。
3 遠ざける対話
俺だってこんなおしゃれなところに行くこともあるんだぜっていう謎のアピールをしておきたい。正月だし。blog facebook yelp
私はルソーと対話について対話したい
ルソーの言語起源論には、こんな驚くべき一節がある。「人間はその欲求を表現するためにことばを発明したと主張する人がいる。この意見は支持できないように思われる。最初の欲求の自然な効果は、人々を近づけることではなく、遠ざけることだった。種〔人類〕が広まり、すばやく地球全体に人が住むようになるにはそうでなければならなかった」。ルソーがここで言っていることは何か、と問いを立てるよりも、私はルソーがここで言ったことが対話について何を言いうるか、と問いを立てたい。なぜなら私はルソーの思想を知りたいとは思っていないが、ルソーの対話についての思想を知りたいとは思うからである。要するに、つまり、私はルソーと対話するのに彼のあれこれの思想の全てに興味を持っているのではなくて、ルソーと対話について対話したいということである。ルソーに対して、「あなたはあれこれ言っているけど、そのことから考えて、対話については何を言ってくれますか?もっと対話に即して考えて、あなたの対話についての見解を、それだけを、是非とも教えてください。他のことは結構です。」と傲慢になって私は言いたい。ルソーが対話について興味がなく、対話について何か言うつもりもないのだとしても、私がルソー(や他の全ての哲学者)におうかがいを立てたいのは、対話や問いについてのことだけなのである。
ディスロゴス
そうするとこの問いに対する可能なルソーの答えは、ディスロゴスとでもなる。ディスロゴスdiSlogosとはむろんdiAlogosの文字りであり、diaが「通じて」「貫いて」といった意味をもつのに対して、disは「抗って」「離れて」「嫌う」「遠ざける」といった意味を持つことから、対話のある重要な、それは事あるごとに口が酸っぱくなるまで私が幾度も言っている、特徴が明らかになる。その重要な特徴とは、対話は、互いに理解し合うとか合意を形成するというようなコミュニケーション的な側面を持つだけではなく、互いに理解し合えないとか非合意を形成するというディスコミュニケーション的な側面を持つ、ということだ。私は後者も対話の一種だと主張するのであるが、あえて人々の陳腐でまるで考えられていない取るに足らない意見に抗する目的だけのために、後者をわざわざdislogosディスロゴスと呼ぶ。そしてディスロゴスは人々が考えもせずに理解していると思っている「対話」とは全く異なる、と挑発する。
対話はコミュニケーションの一種ではない
ところで、対話はコミュニケーションのある一種ではない、むしろ逆に、対話のある種がコミュニケーションであり、別の種がディスコミュニケーションである。対話は、それが何かに含まれるようなある一つの種ではない。対話は(最大の)類genosであって他のものを包括する。全ては対話に含まれ、諸々のものは対話の一種や変種や亜種なのだ。つまり、コミュニケーションだとか根源的翻訳だとか解釈だとか合意形成だと契約だとか言語習得だとかそういったことは対話の一種であるに過ぎず、対話はそれらの生みの親=始源archeだということだ。対話とは何であるか、を真剣に思索するなら、これくらいの独自の見解は出てくるものだろう。それなのに、対話という言葉だけが大流行りし、対話がそもそもどういうものでありどういうものでないのか、という事に関して誰一人として真面目に考えていない。だから、対話はコミュニケーションの一つであるというような曖昧で凡庸な見解が、無批判に受け入れられ、挙げ句の果てには蔓延している。そういった対話についてのいい加減な言説の一切はそろそろ一掃されるべきではなかろうか。そのためには、対話のカテゴリー論が、存在論が、その他諸々が、必要なのであるが、別の機会にこれでもかというほどしつこく論じてやろうと思っている。
”最初の欲求の自然な効果は、人々を近づけることではなく、遠ざけることだった”
話が逸れたが、もう少しルソーの見解に近づいてみる。ルソーは「諸言語の起源は人間の最初の欲求に由来するのではない」と言っている。人間の最初の欲求は他の人々を遠ざけることだと言っている。「最初の欲求の自然な効果は、人々を近づけることではなく、遠ざけることだった」と。だから、言語の起源(それがここでは「声」と同一視されているのだが、そのことについては私はいま問いを提出しない。デリダ『グラマトロジーについて』を思い出しておくだけで十分だろう、中身のことはすっかり忘れてしまったが。)は、最初の欲求に基づくのではなくて、欲求(飢えや渇き)とは異なる、情念(愛、憎しみ、憐憫の情、怒り)に基づくという。そしてこのことから音楽と言語の起源とを結びつけるように議論が展開していくが、今はそこには立ち入らない。つまり、言語の起源についてのルソーの見解にも立ち入らない。対話にとって言語の起源は重要であると大方の人は考えているだろうが、それよりも重要なことがルソーによって言われている。それは、人々を遠ざける(dis)最初の欲求desireのことである。ルソー以外の全ての人が見失っていると思われるこの点を、私の見るところルソーだけは少なくともその視野に収めている。それを直視したかどうかは疑問だが。
対話の原初形態の一つは「他者を遠ざける」ことを目的とする
対話の原初形態のうちの一つに、人々(や同類や隣人とでもいうべき他者)を「遠ざける」という目的があることを人はここで耳の穴をかっぽじってよく聞くべきだ。いいだろうか。一見すると闇や暗がりであるところの、同類の他者や隣人との断絶すなわち「遠ざけること」が、自然な欲求にある、というのだ。このことはほとんどの人々にとって見過ごされている。そして、対話についての有用で善良で退屈な愚鈍な見解が、その裏面を隠し続けている。つまり、対話の原初形態は独断的にコミュニケーションの原型としか理解されておらず、表出説のようなものが無反省にも人々を近づけるという観点だけから考察されているのである。表出説は確かに対話についてのある一側面を捉えている。だが、それがある権威によって唱えられたからなのだろうか、そのことに対するさらなる究明はなされておらず、そのことが対話についての全体的な理解や考察の妨げにさえなっている。こうした一方的で偏った対話に対する見解がまずは可能なもののうちの一つであるにすぎないことが自覚されねばならない。そして、ルソーのこの一節は、そような独断や偏見を打ち破って、これまで実際には考えられていなかった見解を提示していると、私は考えている。
表出説再考 他人を遠ざける表出
表出説による言語習得の原初の場面は痛みの事例を用いてなされることが多い。つまり、転んで痛がっている子供に大人が「痛い」という言葉をあてがうと、子供はその「痛い」という語を習得するようになる、というような事例である。こうした表出説が持ち出される場面が、原初の対話であると理解されている。この理解が、言葉が人々を近づけ互いに人々を結びつけ、ある公共的な意味が成立するというような考察を促す。しかし、これらすべては独断的ドグマティックである。こういうふうにだけ対話が理解されるから、ある意味ではより重要な対話の別の原初形態が忘れられる。その忘れられた側面を、ルソーの言語起源論の先に引用した箇所は、少なくともその痕跡をはっきりと刻みつけている。すなわち、人間の最初の欲求は、他人の注意を引いて近づけるというだけでなく、他人に対して威嚇し遠ざけておくこともあるのだ。全ての人の子が、最初の欲求として同類の他者や隣人から遠ざかりたい、遠ざけたい、ということが組み込まれているのである、同類の他人や隣人を近づけたい、近づけたい、と同時に。そうでなければ人はどうして孤独を好むであろうか。そうでなけばどうして人は自足することを願うだろうか。そうでなければどうして人は他のものを寄せ付けない高みに到達することを目指すのだろうか。
内的対話と外的対話
いずれにしてもここで言いたいことは、対話の原初には、近づけることと遠ざけることの二つの原型がある、ということである。そして、近づけることが内的な対話=内語を成立させる。いわばその円環を内側から閉じるように、自己自身との対話を成立させる、その当初の「近づける」というのとは逆に。これが思考なのであろうか。対して遠ざけることは外的な対話を成立させる。外的な対話とは、内的対話では閉じられることになっていた円環を断ち切り、中心から円周へと向かう、いわば発出の対話であろう。発出の対話は、その当初の「遠ざける」というのとは逆の、遠ざけようとするものを追い越すような、もっと遠くに向けた祈りのようなものだろうか。これらのことは、果たして正しいのだろうか。
補足:ルソーの見解
予期しない誤解を招くことのないよう、ルソーの引用した箇所について言及しておこう。ルソーは遠ざける対話だとか近づける対話だとかいうことを言ってはいないのはもちろんであるが、先にも言ったように、最初の欲求から言語が生じてきたともルソーは考えていない。対して私は最初の欲求に根差す(ここで「根差す」と言われていることの内実はともあれ)言語はありうると考える。ルソーが言っているのは、言語は欲求に根差すのではなくて、情念に根差すのである、ということである。そしてその情念は、飢えや渇きではなく、愛や憎しみや憐憫の情や怒りであり、これが声によって表現される。私はこれに関して同意したり反発したりは、ここではしていない。そして、ルソーが「精神的な欲求、情念」と言い、言葉の起源をパトス情念に、ロゴス理性にではなく、求めている(ようには見える、少なくとも)ことに古代人はそう言いそうもないという理由でいささか面食らうのだが、そのことについて考えることもここではしていない。けれども、言語が欲求に根差すのであれ、情念に根差すのであれ、「近づける」のと「遠ざける」のとの二つのものがある、ということをルソーが指摘している、と私は言いたい。列挙されている情念の例について、愛は「近づける」であり、憎しみは「遠ざける」である、というふうに。私が望む、ルソーとの対話についての対話は、そういうものなのである。
「近づける」「遠ざける」は、ある根源的なもの(arche)であり、「近づける言葉」「遠ざける言葉」があるとすると、言葉には向きがある、ということを私は言いたい。つまり、「近づける」言葉は、内向きの言葉であり、「遠ざける」言葉は外向きの言葉である。むろん、「向き」というのが言葉に限って言われるものではなくて、そもそも「近づける」というのが「内向き」のことなのであり、「遠ざける」というのが「外向き」のことなのである、と私は言ってみたいのだ。だから対話にも向きがあると言ってみたいと思っている。それで、「向き」のことを言っているのがSさんであったから、「ルソーの「遠ざける」から、言葉の「向き」についてこんなことを考えたのですが、いかがでしょう?」というつもりで、上述したことの生の素材を見せてみたのであった。すっごい高い精油を注いだからか、大分今日まで燃え上がったみたいである。まあ正月だから許してもらおう。何しろ正月なんだから。
哲学は火だと言った人がおり、さらに、対話は焚火だと言った人がいる。となると、問いはどうなのか。問いもまた火なのか。自然発火し自己燃焼するところの火、これが問いか。こいつが問いの正体か。