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【完全版】月の男 第12話(最終話)

  さらっ。
 体を起こそうとかすかに腕を動かすと、その下に敷き詰められていた白い砂が袂に払われて、優しくこすれる音がした。
 ゆっくりと凝り固まった体を起こし、白い砂の上に座ると、そこにはどこか懐かしいけれど、初めて見る光景が広がっていた。いつも見る「月の世界」に似ているけれど違う。自分の横たわっている場所は、何もない広場のようになっていた。そして、その広場の四方を、高く高く生い茂る、様々な種類の木々が取り囲んでいる。それらの木々は、幹も葉っぱもすべて、真っ白だった。真っ白な、まるですべてが白亜で作られたかのような森。細く伸びた枝の先端が、芸術作品のように、複雑で繊細な模様を織りなしている。木の葉も一枚一枚が純白で、葉というよりは花のように美しく、降り積もる雪の結晶のように輝いていた。
 空は、たしかに黒一色だった。けれども、白く輝く森の木々がそれを覆い隠し、暗闇を照らし、掻き消してしまうかのようだった。
 ふと、木の枝の隙間から、なにか遠くに球体が見えた。その球体は、誰かが黒い壁面にガラス細工でも飾ったかのように、ひときわ際立って見え、青く透き通った輝きを放っている。ただただ、美しい青い球体。私は息を飲んだ。
「あれは……、地球……?」
「ご名答。」
 思わずこぼれた私の感嘆に、聞きなれた声が返答をする。見ると、木々の隙間から『月の男』が現れ、こちらへゆっくりと歩を進めていた。
 私は瞬きした。自分の目が、白い輝きにやられて霞んでいるのかと思った。『月の男』は、相変わらず黒づくめではあったが、その全身を覆う黒色は、驚くほどに薄まっていた。砂と木々の輝きのせいだろうか。ゆらゆらとたなびく男の上着が、どことなく透き通って見える。
「ここは…天国? 私は、死んだの……?」
 死。その単語は重たい響きを持っていたが、私自身の心の中に、澱みはまったく感じられなかった。すべてが空っぽになって、すべてが清まっているような、身も心も透明になったような心持がする。
「それは俺にはわからない。だが、いつもよりは長く話せそうだな。」
 私は改めて周囲を見渡す。白い木々は、そのあまりの美しさと繊細さに、少しでも触るとパキパキと音をたてて、崩れてしまいそうに思えた。
「……徹夫にも、結局あんたのことは見えていなかった。ねえ、あんたは私だけに見えている幻覚なの? それとも、やっぱり実在してるの?」
「どっちがいいかい?」
 『月の男』は不敵な笑みを見せた。彼の肌が露出されているのは、顔の部分だけだったが、意外にも彼の肌が白かったことに、今更気づく。その白い肌に光が反射して、陶器でできた人形のような印象を与える。
「……私、あんたに出会えてよかった。たとえ、幻覚でも。」
 私は、隣に立っている『月の男』に合わせようと、自らも立ち上がろうとした。そこで、ふと、白い砂になにかが埋まっていることに気づいた。はじめから、ここにあったのだろうか。砂から掘り出し、引き抜いてみる。
 ざああ。
 砂が払い落とされる音とともに、埋まっていた物体が姿を現した。――切っ先に本物の刃のついた、なぎなただった。
「そういえば、俺の正体はつかめたかい? お嬢ちゃん。」
 『月の男』が銃をくるりと手の中で回転させ、その銃口で帽子の日よけを軽く持ち上げる。こちらに向けられた赤い両目が、はっきりと見えた。
「いいえ。でも、あと、もう少し。」
 私はなぎなたを構える。『月の男』がその気なのが伝わってきたからだ。
「お手合わせを。」
 そう言った私は、自然と口元が少しほころんだ。私にどうしてこの男が見えるようになったのかはわからない。どうしてあの絵画が屋敷に来たのかもわからない。この「月の世界」が何なのかもわからない。そして、この男のそばにいると、どうして無性になぎなたで戦いたくなるのかわからない。けれども、私は、もうこの男のことが、迷惑な存在とは思っていなかった。この数週間の間に起こった不思議な一連の出来事を、すべて一緒に目撃してきた、私にとって「同伴者」とでも言うべき唯一の存在だった。
 間合いをよく見計らって、最初の一振りを食らわせる時機をうかがう。『月の男』は素早い。何手も先を読み、自分が有利になるよう緻密な選択をしていかないと、振り回されるだけで終わってしまう。
 『月の男』は特に銃を構えるでもなく、横目でこちらの様子をうかがいながら立っていた。跳び上がらせて、あの跳躍力を使わせてはだめだ。私は慎重に間合いを詰めていき、どこを狙うつもりか悟られないよう、相手の目だけをじっと見つめる。
 ――ここだ。
 シュンッ! と私は勢いよくなぎなたを前に繰り出す。『月の男』の、わき腹あたりを狙って突いた。男はすっと反応し、横へと身を翻して攻撃をかわそうとする。
「――狙い通り!」
 私はクンッと勢いをつけて、なぎなたを突き立てる向きを変える。切っ先を少し下方に向けて、そのまま。絡め捕る。
「――!」
 逃げようとした『月の男』の身体が、何かに引っかかったかのように急停止する。私のなぎなたは、男の身体そのものにはかすりもしていなかったが、その先端で、くいっと黒い上着を絡め取っていた。
 上着とともに、『月の男』がその場に留められる。私は両腕に力を込めて、振り切られないようにしていたが、この次の一手はどうするか、まだ決めかねていた。男が逃げられないようにしたはいいものの、自分のなぎなたもまた、男を留めるために自由を失ってしまったことに気づく。
 ふと見上げれば、『月の男』の身体はすぐそばにあった。両腕で身体を抱き留めて、片手でなぎなたを突き立てる? いや、片手を離した瞬間に、逃げられてしまう。どうすれば。
 ガチャリ。次の選択を迷っている間に、『月の男』が私の額に銃口を押し当てた。『月の男』はにやりと笑う。ハッタリだ。本当に撃つ気なんかない。私はひるまず、男を睨み返す。爆弾になぎなたを突き立てたときのように、恐怖も何も感じなかった。ただ、この男に勝ちたい、その思いだけが私を駆り立てていた。
 ビリイイ!
 なぎなたの先端が不協和音を発し、そこから感じていた反発力がふいに軽くなる。するする、となぎなたに絡まっていた上着がほどけていくのがわかった。たなびく漆黒には大きな切れ目が入っている。『月の男』が自らを解放するために、なぎなたの刃を利用して上着を裂いたのだ、と直感した。
 シュンッ、と『月の男』が軽く跳び上がって私から離れ、三、四メートル先に着地した。男の赤い目が、ぎらりと輝いて見える。楽しい。この戦いは、楽しい。まるでそう言っているかのようだった。
「まだまだ!」
 私は一気に駆けていき、大きくなぎなたを振り下ろす、男は短銃の側面ひとつで、それをガチィンッと受け止めた。ググッ。両腕に力を籠め、銃を押し払おうとするが、いかんせん『月の男』の力が強く、また、その込め方も手練れているようで、なかなかうまくいかない。私はフッと一瞬、なぎなたから両手を離し、さらに体を男に近づけてなぎなたを短めに握り直し、
 ゴチィン!
 もう一発。しかし、だめだ、今回も同じように、銃で受け止められてしまう。
 ググッ、グッ、と力の押し合いをしているうちに、私と男の身体はさらに近づく。顔にかかった前髪を振り払おうと、少し顔を上げて頭を振ると、すぐそこに男の顔があることに気づいた。
「私――負けない! あきらめない!」
 私は真っ直ぐに、すぐそこにある『月の男』の赤い目をとらえ、キッと睨む。男の赤い目もまた、私を見つめ返す。諦めたくない。私は強く思った。たとえ、この男に一生敵わないとしても。でも、諦めたくはなかった。
 私は、自分を取り巻くすべてが、理不尽だと思っていた。私の前にだけ現れた、この『月の男』のことも、理不尽で迷惑で仕方がないと思っていたし、時間が経過していくにつれて、自分には周囲の理不尽さを解決するだけの力が足りないし、自分だけではどうにもならないこともあると気づいて、焦りや、いらだち、そして絶望、様々な感情がごちゃ混ぜになったものに、押しつぶされそうにもなった。
 みんなもきっと、私と同じように、そんな理不尽さを、集団社会の中での自分の小ささや非力さを、どこかで抱えながら暮らしていたのだろう。
 授業や試験がつまらないという思いを互いに共有していた佐之助と直哉は、日常からふざけて鬱憤を晴らしつつも、最終的に教室をめちゃくちゃに破壊するというやり方で自分の思いをぶつけ、表現した。京子は、自分の弱さを受け止め、自分を変えようとしてなぎなたに打ち込み、学園代表の座をつかむまでになった。徹夫は、独りでその思いを抱え込み、独りで理不尽さに対する答えを見つけ、自分も周囲もすべてを一変させるために、人知れず爆弾を作っていた。
もしかすると、私くらいの年齢の人はみな、一度は同じ壁に突き当たるのかもしれない。そして、私自身は、どうだったか。自分は佐之助と直哉を見て、怒りすら覚えた。理事長室が爆破されたとき、僅かながらも爽快な気分を感じてしまったことに、罪悪感を覚えた。そして、なぎなたに一心に打ち込み、その結果自分を変えた京子を、心から尊敬した。
これまでの私は、心のどこかで理不尽さを抱えながらも、それをはっきりと認識していなかったし、どうにかしようとも思っていなかった。ただ、黙って、ため込んでいただけだった。なぎなたの大会に向かう直前、いつもの自分だったならば、いったいどうなっていただろう。父親に大した説明もなく止められて、それを理不尽に思いながらも、苦虫を噛み潰したような表情をしながら、黙って諦めていたのではないか。ただ理不尽さを抱え込むだけではなく、きちんと口にして、言葉で表現してみたら、そこにはこれまで見えなかった道が開かれていった。事態が展開するのに身を任せるだけではなくて、自分がそこに積極的に介入し、新たな道を切り開いて行けた。ユキも篤子も、そして『月の男』さえも、私に力を貸してくれた。
 この思いを、このままため込んで何もしないのか。それとも屈折した形で爆発させるのか。どちらも、私は選ばない。
 自分で動いて、自分を変える。そうしたら、周りの景色も、きっと、変わる。たとえ、どうしても力が及ばなくて、結果は同じだったとしても、そこから見える空模様は、何もしなかった時とはきっと、違うはずだ。
 頭の中に様々な考えが去来したが、私は腕の力をゆるめなかった。ふと、『月の男』の赤い瞳に、私の姿が映っていることに気づいた。『月の男』を睨み付け、しっかりと見据え、捕えて離さないようがむしゃらに食らいつく、私の姿。
 まるで、鏡を覗きこんでいるみたい。

 ―――あっ…!

 その瞬間、はっとした。鏡。月の男。私の心の中に、答えが浮かび上がる。
『月の男』が何者であるか、という答えが。
「つかめない、こわい、真っ黒、でも、どこか懐かしくて、知ってる――」
 私は赤い瞳を見つめながら、その答えを手繰り寄せるために、言葉を紡ぐ。。
「私の心が呼び寄せて、真っ暗闇で、正体がわからなくて、でも、たしかにここにあって、きちんと向き合えば、わかる――」
もう少しでつかめそうだったけれど、ずっと言葉にできなかった「何か」を、今、はっきりと口にできる。

 これは、「私の心」そのものだ。

「あなた、私の心ね。私の心の、弱い部分ね。ずっと抑え込んで、見ないふりをしてきた、暗い世界に閉じ込めていた、弱い心。挫折や絶望から目をそらして、もてあましていた、私の心。」
 私は答えを確認するように、もう一度『月の男』の瞳に映った自分を見つめた。
 その刹那。
パキイイイイン…!
 一瞬の、出来事だった。
 私のなぎなたを受け止めていた『月の男』の銃にひびが入り、、まるでガラスのように砕け散る。銃の残骸はみるみるうちに細かく透明になっていき、ダイヤモンドの結晶があたりに飛び散ったかのような光景を見せる。
 そして、下から支える力が失われた私のなぎなたは、そのまま一気に振り下ろされ、ずずず、と『月の男』の左肩から右わき腹に向かって、斜めに振り下ろされた。
 両腕に、泥の塊を斬ったような、重くて気味の悪い感覚が伝わる。
 私のなぎなたは、『月の男』の身体を斬り裂いていた――

「あああ……あああああ!」
 私は驚きと恐怖で叫び声をあげた。堰を切ったかのように、両目から涙がどうっと溢れてくる。私には、本当に『月の男』を斬る気などなかった。すんでのところでなぎなたを止め、一本をとる。そうすれば私の勝ちだ。そう考えていた。まさか、こんな展開は、望んでもいなかった。
「なんで……! ちがうの……! わたし……!」
 自分の行為の重大さに震えが止まらない。傷つけるつもりなど、なかった。『月の男』は痛みを感じないのか、顔一つゆがめず、両手を広げ、「降参」とでも言いたげに、その場に立って、空を見上げていた。ただ、その瞳は、どこか悲しげだった。
 大きく開いた傷口からは、血は流れていなかった。ただ、そこからまるで煙のように、真っ黒な闇がしゅうしゅうと吐き出されていた。
「ああ、とうとうやったな。俺の負けだよ、お嬢ちゃん。」
 『月の男』は、無念さと寂しさが混じったような声で言う。
「罪悪感を感じることはない。俺は正体を当てられたら、消える運命なんだ。こうなることは初めから決まってたんだよ、お嬢ちゃん。それに、どのみち俺は、薄まっていた。お前はもうすでに一歩を踏み出していた。挫折や絶望と向き合って、自力で俺を乗り越える道を進んでいたからな。俺が姿を現したとき、気づかなかったか? 俺がもう既に、消えかかっていることに。この暗闇の『月の世界』も、お前自身の変化に合わせて、ずいぶん様変わりしただろう?」
 しゅうしゅうと傷口から闇が吐き出されていくにつれて、『月の男』は次第に薄まり、どんどん透明度を増しているように見えた。このまま、白い木々の輝きに照らされて、蒸発してしまうんじゃないだろうか。今では白づくめの「月の世界」の中にある、ただひと塊の暗闇を、私はすがりつくような目で見つめていた。
「おい、泣くな。」
 『月の男』は私の気持ちをなだめようと、すっと近寄り、茶色い手袋を取った。そして、白い美しい手で、私の頬を優しくなでた。
「お前が良い方に変化したってことだよ。俺も、お前に出会えて、よかった。お前が俺を乗り越えてくれて、よかった。」
 『月の男』がかすかに微笑む。ああ、どうしてだろう。あんなにこの男が怖くて、一刻も早く消えてほしいと思っていたのに、今、こんなに切ない気持ちがするなんて。
「こんなことくらいで……私に負けたくらいで……消えるの? 世界を……壊すとか……大きなこと、言ってたくせに……。」
 私はしゃくりあげながら、言葉を絞り出す。一言一言が、この男との最後の会話になるのではないかと思うと、声を発するたびに心臓が締め付けられた。
「はははは。」
 『月の男』はいつもと同じように笑い声をあげる。
「そういや、お前は疑問に思わなかったのかい? どうして俺が、お前の世界を壊すなんて言いながら、学校にしか現れなかったのか。」
 私は黙って首を振る。
「これは俺から答えをやろう。それは、今のお前の世界が、お前のお屋敷と桂野学園、まだそれぐらいの広がりしか持っていないからだ。お前は、自分で思っているよりも、ちっぽけな範囲で生きているんだよ、お嬢ちゃん。」
 普段通りに話す『月の男』の声が、先ほどより小さくなっているのに気づく。
「かといって、今生きている範囲が、世界のすべてと思ってはいけない。お前の世界は、まだまだこれから、無限に広がるんだからな。」
「あんたは、『私の世界』をすでに壊したわ。」
 私は手のひらで涙をぬぐい、笑顔を作ろうとした。
「だって、あんたは、私を変えたもの。そしたら、ものの見え方が変わって、これまでの息苦しい世界が壊れていった。そして、新しい世界が見えるようになったわ。あんたは私の世界を壊して、そして、再生した。」
 私は口角を上げてにこりと笑う。涙はまだ止まりそうになかったが、この男がもうすぐ消えてしまうなら、せめて笑顔で接していたい。そう思った。
「……ありがとうな。」
『月の男』は赤い目を少し細めると、ふうっと息を吐いて、悔いはないという表情になった。
「最後の仕上げだ。俺はもう、消える。お嬢ちゃん、お前の手で、俺を送り出してくれ。」
 背後の森が透けそうなほどかすかな存在になった『月の男』が、ふたたび両手を広げ、まっすぐに立つ。
「さあ、俺をなぎなたで、横一文字に斬ってくれ。俺への、餞として。」
「そんなこと、できない…!」
「お願いだ。時間がない。」
 私は首をぶんぶん振って断ったが、『月の男』は真剣な眼差しで言った。
「俺を乗り越えて、これから歩んでいく『儀式』として。さあ。」
 『月の男』の赤い瞳から、彼の心が、気持ちがすべて、伝わってくるかのようだった。その後はもう、言葉は必要なかった。私と『月の男』は、最終的に、眼差しで心を通じ合わせた。赤い眼差しは、私のぐちゃぐちゃな心に語りかけて、優しく静めた。そして、これが避けられない儀式なのだということを、私が自分の殻を破って成長していくのと引き換えに、消えゆく定めを背負った彼の心からの望みなのだということを、納得させた。
 私は静かになぎなたを構え、『月の男』の真正面に立った。私は男にそっと微笑みかけ、男はかすかに頷く。ゆっくりとなぎなたを右に大きく開き、しっかり握りしめ。
 『月の男』の身体を、右から左へと横一文字に斬った。
 その最期の光景も、不思議で美しいものだった。
 『月の男』の漆黒の身体に、私のなぎなたの切っ先が当たった瞬間、そこからぶわっと桜の花びらが噴き出してきた。なぎなたが横へと滑っていくにつれて、切り口から桜の花びらが、紙ふぶきのようにどんどん溢れ出し、空に舞い上がる。花びらは尽きる様子もなく、真っ白な世界を薄桃色に染め、空へ空へと吸い込まれていく。いつも間にか、私が手にしていたなぎなたも、桜の花へと分解して舞い散っていった。暖かい、春の嵐。私の身体も、花びらとともにふわりと浮かび上がる。花びらに囲まれて、前も後ろも、周りの景色もよくわからなくなっていたが、白い砂も、白い木々も、空に広がる闇も、すべてすべて花びらになって、すべてが吸い込まれていく。
ただ視界に入るのは、薄桃色の、光―――。

 目を覚ますと私は見知らぬ部屋で、ベッドに横たわっていた。清潔な印象の白い壁に囲まれた部屋。ベッドの脇から伸びる点滴の管を見て、ここが病院だと気づく。
「あら、やっと目を覚ましたのね。」
 ふと見ると、枕元に母親がいた。自分の腕や頭に、包帯が巻かれていることにも気づく。おそらく、あの爆発の後、私は病院に担ぎ込まれたのだろう。ということは、命拾いしたということか。
「まったく、勝手にあんな会場に行って、爆発にまで巻き込まれるなんて……! お医者様から大きな怪我はないと聞くまでは、生きた心地がしませんでした。本当に、あなたは、勝手なんだから……。」
母親はくるりと背を向けて、背後の棚に置いてあった荷物をなにやらごそごそと探り出した。さっき、少し涙声になっていたように聞こえたのは、私の気のせいだろうか。
「おなかがすいているんじゃないの? 今準備しますからね。ちょっと待ちなさい。」
 母親はそっとカステラの箱を取り出して開け、一切れずつ切り分ける準備を始めた。
 私の好物の、カステラ。
 ふと、心の中に絡まっていた何かが、ほどけたような感覚がした。ああ、やはりこの人は、私の母親なのだ。当たり前のことを、再認識する。言い争いをしても、何があっても、私の母親としてここにいる。
 今度から、この母親とも、いいえ、両親とも、きちんと向き合っていこう。逃げずに、否定されることを恐れずに、自分の考えをはっきり伝えよう。ほのかに甘いカステラの香りを吸い込みながら、私は思った。

 私は、あまり大きな怪我はしていなかったが、頭も少し打っていたらしく、念のためということで、そのまま一週間ほど入院した。この病院は父親の仕事仲間が経営しているもので、桂野さんの娘さんだから、念には念を入れようとの考えもあったようだった。自分でもそう感じていたが、あの爆発を一身に受けて、この程度の負傷ですんだのは奇跡だ、と医師から言われた。現場を目の当たりにしていた大治郎は、私の怪我の程度を聞いて、見えないマントにでも包まれて、守られていたのだろうかと言っていたらしい。これはあながち、間違いではないのかもしれない。私は真っ黒な上着と赤い瞳を思い浮かべながら、ぼんやりと考えた。
 徹夫はあの後、大治郎に取り押さえられ、それ以上の騒ぎは起こさなかったそうだ。みんな私に遠慮して言えずにいるのかもしれないが、あの後徹夫がどういう処分を受けたのか、まだ耳にしていない。もしかすると徹夫は、私に自分の気持ちをわかってほしいという思いから、脅迫状で『月の男』を名乗ったのではないだろうか。一度、父親が見舞いに来たときに、徹夫に寛大な措置をしてくれるよう、懇願した。父親はどうするつもりかは表明しなかったが、私の気持ちはわかったという面持ちで、ただ黙ってうなずいた。
 徹夫に薬を飲まされた「北条さん」という女子も、運よく軽症で済んだようだった。別の病院に入院していて、まもなく退院できるらしい。
 入院中は、なぎなた部の生徒達やクラスメイト、師範先生などが入れ替わり立ち替わりお見舞いに来てくれて、なかなかにぎやかに過ごすことができた。個室だったので、みんなで遠慮なくしゃべったり笑ったりできた。
 そして、あれからは『月の男』の夢は見なかった。

 退院の日がやってきて、私は久しぶりに家に帰ることができた。松子をはじめ、女中や執事たちが、皆総出で門のところまで迎えに出てくれていた。私の体調を気遣う皆に、もう平気だから、と声をかけて、笑顔を見せる。私をぎゅっと抱きしめたり、涙を見せる女中もいた。
 入院中の荷物を部屋へ運ぶために、何人かで階段を上がる。その時、ふと踊り場の絵画に目をやった私は、仰天した。そこにかかっているのは、『月の男』の絵に少し似ているけれど、まったく別物とでも呼ぶべき、少し真新しさを帯びた絵だった。
「松子、この絵は……?」
 確かに構図は、『月の男』の絵とよく似ていた。しかし、厚塗りの黒い絵の具が全体的に削ぎ落とされており、印象がまるで変わっていた。空にはところどころに星が描いてあり、そこに浮かぶ地球は、最後に『月の世界』で見たもののように、青く美しく輝く、写実的な地球だった。大地に、草花のようなものが控えめに描き足され、そして、黒づくめの男の姿は、画面のどこにも見当たらなかった。本来であれば男が描かれていた位置に、白くて細い、枯れ木が美しく描かれていた。
「あぁ、この絵は、ご主人様が修復に出されたのですよ。ちょうどさっき、お嬢様がお帰りになる一時間ほど前に、お屋敷に戻ってきたのです。お嬢様が……失礼を申し上げますが、お嬢様があの日、この絵を落下させたとき、衝撃で絵の具が剥がれたんです。よく見ると、元々は別の絵が描いてあったキャンバスに、何者かが上から絵の具を厚塗りして、あのような絵に描き換えていたということがわかったんです。それでご主人様は、即座に絵を修復に出され、上描きされる前の姿にお戻しになりました。お嬢様が、この絵をお気に召していないということも、ご存じだったようですから…。」
 松子が穏やかに説明する。
「……本当に、消えてしまったのね……。」
 『月の男』は、もう、いない。
 その事実が、強烈に私の心を揺さぶった。私はひとり階段を駆け上がり、部屋のドアを開け、中をぐるりと見回す。
 入院する前と、何も変わらない部屋の光景。『月の男』との出会いは、はたして現実だったんだろうか。それとも、私だけが見ていた、夢だったのだろうか。
もしかすると『月の男』は、私の弱い心が生んだ幻だったのかもしれない。けれども、彼は私に「きっかけ」を与えてくれた。自分が変わる、きっかけを。
 私は思い切り部屋の窓を開けた。ふわりと暖かい空気が頬をなでる。そこには、つい先日までは枯れ木のようだった桜の木が、数えきれないほどのつぼみをつけ、花開く瞬間を今か今かと待ち望んでいる姿があった。
「桜……。」
 餞の、桜。『月の男』の言葉が、ふと思い出される。
 今日からまた、いつもと変わらない日常が始まる。
 でも、その変わらない日常を、どのように変化させられるかは、きっと私次第なのだ。
「……ありがとう……。」
 私は、続いて部屋に入ってきた女中たちに聞こえないよう、小声でつぶやく。
 空には、薄白い雲がほんわりと浮かんでいる。
さわ……とかすかに風が吹き、桜のつぼみを穏やかに揺らしていった。


(完)