雨上がりの青は日々是好日(未完)

 即興創作のアプローチに一時間以内に書き切る〝ワンライ〟と呼ばれるものがある。私達が私立北崎高校文芸同好会に入ったとき、部長の冬菜ふゆな先輩——静居しずい冬菜先輩は名字で呼ばれるのを異様に嫌がる——から最初に出された課題がこれで、執筆の筋力を鍛えるのにうってつけなので、それから私達は言われなくてもときどきやっている。
 放課後の部室に、電子的なアラームの音が鳴り響いた。
「タイムアップ」
「あ、あ、アディショナルタイム」
「時間過ぎたらアンタッチャブル」
「ですよねー」
 私がそう言うと霧生きりゅう青葉あおばは、両手を上げて椅子の背もたれにひっくり返った。思いっきり反り返るので、漆黒の長いポニーテールが床に着きそうになる。
「あぶないよ」
「わかってる……」
 青葉はゆっくり体を起こして、キーボードに向き直った。同好会の備品であるメカニカルキーボードは、ノートパソコンに有線接続されている。二つくっつけた長机の上には、ノートパソコンとキーボードが向かい合わせに置いてあって、私と青葉も向かい合う形で座っていた。違うのは私の方は無線接続だということくらいだ。
「その様子だと未完成?」
「うん。絶讃工事中です。終わってますデス」
 切れ長の目が情けなく垂れていた。しかし、その瞳が私をとらえると、嘘のようにしゅっと形がととのった。
詩乃しのはできたの? ——って、愚問か」
「できはしている。完成だけはしているとも言える」
「またまた、そう言ってちゃんと面白いんだ」
 青葉はつんと唇と尖らせると、左手で頬杖を着いた。だらけているようで、右手で無線マウスをしっかり操作している。早くも学内ネットワークを介してチャットアプリに上げた私の小説をダウンロードしているようだった。
 長い人差し指がマウスホイールを撫でる。青葉の両眼が鋭さを増した。読み始めたらしい。私も読むか。青葉がアップしたファイルをダウンロード、テキストファイルを展開。
 そして、部室に訪れる沈黙。
 青葉の小説は、相変わらずというべきか最初からよく練られていることがうかがえた。時間がないのをわかっているくせに、しっかりルビ記法でルビが指定してあって、対応しているテキストエディタなりウェブサイトに放り込めば、ふりがな付きで読めるだろう。
 でも、そんな小手先のことではなくて、単純に読みやすい文章を書く。
 文法や語法に致命的な間違いもない。
 五分くらいしただろうか。
「やっぱりね。なにが〝完成だけはしている〟だよ。しっかりちゃっかりオチまでついてまとまっているじゃん。それにどうやったら四八九七字も書けるのさー」
「それは、書きさえすれば文字数は増えるでしょ」
「そりゃそうですけどー。あーあ、私も詩乃みたいな思い切りとタイピング速度が欲しい」
「べつに青葉だって遅くはないと思う。この精度で二二三七書けば十分だと思う」
「でも完成してない」
「でもあと数行で終わってた」
「まあ、ね」
「書いてみれば?」
「うん」
 青葉は軽く腕を振ると、キーボードとパソコンに向き直った。カタタタタタ……と鬼気迫る勢いでキーを叩き始める。そう、青葉の打鍵は決して遅くない。自覚してないだけで、書くこと決まっているときの青葉はめちゃクソ速いのだ。
「できた。アップした」
 ほら。
 ちゃんと時間は計っていなかったが、五分くらいだっただろうか? 十分は経っていない。
 青葉の書き上げた小説は、ちゃんと面白かった。
 それを——それからさっき思っていたことを——伝えると、青葉はまんざらではなさそうに頬をかいて笑った。
「ありがと」
 こういうとき青葉は恐ろしく素直だ。
 ワンライをやるたび、青葉は私の〝思い切りの良さ〟と〝打鍵速度〟をうらやましがるが、隣の芝生が青く見えているだけの話だと思う。
 なにより、ああいう素直さは、私にはない。

        *

「こだわりが強すぎるんじゃないかな? 後から付け足せるものは全部後回しでとにかく書くように意識してみたらどうかな。たとえば、ルビをすっ飛ばして書くとか」
 今日の青葉は少ししつこくて、私に向かって「いいなー、詩乃は」を繰り返すので、思いつく限りの——それにしては貧困だが——アドバイスを口にしてみた。
「ルビね。でも私の文章ってもうルビ込みでまとめて出てくるから、気がついたときには打っちゃっているんだよね。最初にそう決めてるから書いてるみたいな」
「そうなんだ。じゃあ、この間の小論文しょうろんには〝初志貫徹〟と書いたとか?」
「ん、ああ……座右の銘について書きなさいってアレね。ううん、私の第一座右の銘は『足りぬ足りぬは工夫は足りぬでした、ははは……物知らないって恥ずかしいですねー』みたいな」
 思わぬ言葉が出てきたので、私は思わず両目をしばたたいた。その拍子に眼鏡がずれる。チタンフレームの冷たさを感じながら、あらためて聞く。
「どういうこと? そんなに悪い意味じゃないと思うけど」
 青葉は苦笑して、開け放たれた窓を背に寄りかかった。
 六月の初めの空には、雨上がりの虹が昇っていた。だいぶ陽が長くなったので、四時台でも十分明るい。
「あれね。戦中ってか、太平洋戦争中にお上が考えた標語で、ようするに『物がないのを欲しがらずに工夫して間に合わせなさい』ってクソみたいなルーツがあるんよ」
「ああ、それは確かに」
「でしょ。小学生のときだったかなぁ。タイトル忘れたけど、その言葉を言葉通りに受け止めて肯定的に使うシーンが出てくる小説があってさ。子ども心になんかいいなー、って思ってそれから座右の銘はこれだ、って決めてた。馬鹿なガキだったよ」
「第一というのはファースト、それともプライマリ?」
「ファーストでもありプライマリでもあった、って感じかな」
「いまは違うんだ」
「うん。足りぬ足りぬ……のルーツがろくでもないことを知った後は『暗いと不平を言うくらいなら電気をつければいいじゃない』になった。これはいまでも第二かな」
「セカンドかつセカンダリー?」
「イエス」
 青葉はうなずいて、カーテンを半分引いた。その気づかいに私は小さくうなずいて返す。西日が私の髪に反射していた。五代くらい前の祖父からの隔世遺伝で受け継がれた白金の髪は、こういうところでも悪目立ちする。

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