レディネスに配慮する重要性を痛感
職場での話。キャリアを積んでいくと、少しずつ自信と共に無意識に案件を分類して対応を判断することで仕事に全能感を感じる瞬間が来る。よくあることだが、実はこれは最悪なことを引き起こしかねないということを今日身をもって学んだ。私自身の失敗ではないが、同僚の失敗によって身が引き締まったという話。
詳しい案件の内容は書けないが、エッセンスだけを言えば、いつも自信と余裕のある様子で相手からの信頼を得てきた同僚が、ある案件を経験に基づいて分類し、さらに希望的観測で見積もって対応したことで、相手が予測外の動きで混乱をきたして進捗が大幅に後退してしまったというもの。あまりにもぼやかして書いてるので、なんのこっちゃわからないかもしれないが、自分の仕事や身の回りのことに当てはめて想像していただけると幸いです。
もちろん、結果自体は相手が引き起こしたもので、同僚のせいではない。同僚の対応が間違っていたかと言えば決してそうではない。もちろん誰からも責任は問われないが、おそらく同僚は後味の悪い思いをしているだろうと思う。なぜなら、前もって予測してそれを回避する、もしくは今よりもマシな結果へと導くやり方はあったように思えるからだ。同業者はたぶん、この話を聞けば皆、身につまされる思いがするだろうと思う。冷や汗さえかくかもしれない。
では、その「今よりもマシな結果へと導くやり方」とは何か。同僚が案件を進めようとした時、同僚の想定したレールに乗る準備が相手にあったかどうかの判断である。このステップがあるか無いかで、その後のトラブルの大きさは変わっただろうと思う。つまり、相手のレディネスである。
仕事は結局、人対人の営みである。需要と供給は求めるのも与えるのも人だ。特に案件が相手から持ち込まれたものであれば、こちらの希望的観測を持って対応するにしても、相手のレディネスを常に確認し尽くさなければならない。今話している内容は、どんな仕事にも当てはまるのでは無いだろうか。医療現場でも、教育現場でも、産業分野でも。
終わってしまったことを責めるつもりはない。自分だって同じような失敗をしかねないのだから。ただ、今後の自分の仕事上の判断に必要な要素だと感じたことは忘れないでいたいと思う。
おまけに、別のことも考えた。自分の個人的な人間関係を振り返っても、相手がこちらの言い分を受け入れる準備ができているかを判断せず、言いたいことだけ言って満足しても、関係性というものは築けない。つまり、正論のつもりでいっても、相手が聞く耳を持っていなければ無駄なのである。
こうやって仕事で学んだことは仕事上にとどまらず、自分の人生を豊かにする学びになりうると、貪欲に一石二鳥をねらっていきましょうか、わっしょい。