【蓮ノ空感想文】藤島 慈に惚れた訳
はじめに
みなさん、こんばんわ。遠月七尾と申します。
この度蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ公式様から、【蓮ノ空感想文】を投稿しよう。という企画が発表されました。
自分の最推しに対しての思いの丈を吐き出す場所としてこの企画に乗らないのなら往々にしてX(旧Twitter)で怪文書オタクはしていない!
と思い立ちこのnoteの執筆をさせて頂きます。よろしくお願いします。
スクールアイドル 藤島 慈
この章では、藤島 慈がどんなスクールアイドルなのか。という部分を焦点にお話をしていきたいと思います。
彼女の魅せ方
藤島 慈というアイドルは、可愛いを売りにしたアイドルです。
可愛い衣装、可愛い声、可愛いダンス。可愛い自分を武器に全世界の全ての人を夢中にさせたい!という思いでステージの上に立つアイドルです。
彼女にとって“可愛い”とは自分を一番輝かせるモノなのです。
誰よりも可愛いこと、誰よりも可愛くなれること、この可愛さで多くの人を夢中にできること。それらを藤島 慈が確信し胸を張って言えるからこそ彼女は可愛いを売りにアイドルをしているのです。
ただ自分って可愛いからこの方向性が1番だろう。という選択ではなく、可愛いという項目において誰にも負けない、という自負があるからこそなのです。
もし、仮に可愛いではなくカッコイイが似合うと確信していれば彼女はカッコイイを売りにしたアイドルの道を辿っていた。と確信を持って言えます。
つまり彼女は自分の魅せるべき部分が可愛い自分であると理解しているのです。
芸能界での経験
藤島 慈は蓮ノ空へ入学する以前は、芸能界に身を置いていました。
子役として活躍し、入学前にはレギュラー番組を持っていた。と言うくらいですから、その人気はとても高いものだったのでしょう(現実で言えば、鈴木福くんや芦田愛菜ちゃんでしょうか?世代がバレますね)。
子役としてデビューし、高校入学前まで業界でしっかりと活動していた。これはただ可愛いだけの人では容易に成し得ることではないと思います。
それでも彼女は、芸能界で活躍していました。
その理由は彼女が自分の魅せ方を熟知し、最高の自分を見せているからだと思います。自分が何すればファンが喜んでくれるか。どんな表情を見せればファンの心が動くのか。どんな話題を話せばファンが楽しめるか。
そういったことを常に考え行動に移すことが彼女の高い人気の根源にあるのです。
彼女の魅せ方の経験は彼女を支え、際立たせる大事な土台なのでしょう。
夢中になった、だからこそ。
自分自身が興味を持っていないモノを他人に勧めることって難しいですよね。
なら自分が夢中になっていないことで他人を夢中にさせることなんてできないと思いませんか?
藤島 慈の一番の夢(目標)は全人類を夢中にすること。
そんな彼女のもう1つの夢はスクールアイドルとして皆を夢中にさせることです。
この夢は蓮ノ空女学院へ入学し(させられ)スクールアイドルクラブで活動していくうちに出てきた夢です。
そもそも芸能界から離れること自体が不満でしかなかった。スクールアイドルクラブに入部することになったけど今まで芸能界で生きてきた自分ならこのくらい楽勝。という思いを持ったまま彼女は初配信を迎えました。
しかし、そんな気持ちを塗り替えるように彼女はスクールアイドルに夢中になっていくことになりました。
そもそも、彼女の夢の原点は、周りの誰かが笑顔であって欲しい。というものです。
だからこそ配信を通してリアルタイムで自分の配信を見てくれる"誰か"が笑顔になってくれる。反応をくれる。そのことに喜びを覚え、もっとみんなを楽しませたいと思えるようになっていったのです。
自分自身が夢中になれた。なってしまった。
自分が楽しいと感じたのなら、この思いをみんなにも分けたい、みんなにも楽しいと思って欲しい。
だから、スクールアイドルとしてみんなに楽しいを伝えたい。夢中にさせたい。
そういった思いが今の彼女の原動力であると言えるでしょう。
アイドルの形
今の自分ができる精一杯のこと、それで周りにいっぱいの笑顔が溢れること楽しいが満ちること。
そのために、可愛さを武器に、みんなが笑顔で楽しめることを、全力で共に楽しみ夢中にする。
それが彼女のスクールアイドルとして形です。
藤島 慈にとって、自分が夢中になれたことだからこそ、スクールアイドルという存在が夢を叶える手段となり得たのです。
故に、彼女にとってのスクールアイドルは目標でも憧れでもなく手段だとも言えるでしょう。
藤島 慈 の本質。
前章ではスクールアイドル 藤島 慈 の形をお話しました。
では、スクールアイドルではない、藤島 慈という少女の形は如何様なものなのでしょうか?
見えぬ努力、見せぬ失敗、止まらない歩み。
藤島 慈は努力の人である。それが私が藤島 慈のストーリーで最初に感じたことです。
彼女は芸能界で活躍していました。ストーリー上では、幼馴染にテレビに映る自分の姿を見せることで励まし元気を与える回想があります。
では、このテレビに映る自分を見せるという行為のハードルはどれほどの高さなのでしょうか。
簡単ですか?幼いの少女がやってみたらできた!と言えるものですか?
答えはいいえです。
やりたいから、やろうと思ったから。そんなことでテレビに映るなんて出来るわけがないのです。もしできるようならこの世界にはもっと芸能人が俳優が溢れていることでしょう。
ではなぜそれができたのか。これはとても簡単です。
何度オーディションに落ちたとてしても諦めず努力を重ね、何度もオーディションへ応募すればいいのです。合格してテレビに映るその日まで。
極論だと思います。でもそうやって行動をし続けたからこそ藤島 慈は芸能界へと入ることが出来たのです。
その証が彼女が幼馴染との喧嘩で吐露した弱音であり、何度も履き潰しては買い直した全く同じデザインのシューズです。
「ダンスだって、いつもこっそり練習してた!子役のオーディションだって、何回も何回も落ちたんだから」
このセリフで、彼女がただ才能や容姿に恵まれたから芸能界で活躍できていたのではないということがわかります。
そして、どれだけ失敗しても努力を続けて結果を掴み取っていたということも。
目指した夢。誰かの笑顔が見たい。だから失敗して転けて挫けそうになっても立ち上がり進み続ける。
その姿を周りに見せつけることなく、むしろ隠して、常にカッコイイ姿を見せ続ける。
彼女はそうやって自分自身を作り上げていったのです。
特別な才能が発揮されたわけでも、抜群の容姿で魅了していたわけでもない。
弛まぬ努力、挫けぬ心、止まらない歩みで彼女は進み続けています。
熱くて眩しい先導者
「みんなを楽しませようと思ったらさ、先にそういう盛り上がる場所を作って、「ついてこーい!!」ってやる方が良いに決まってるじゃん?」
この言葉こそが彼女の行動の根ざすものです。
みんなを楽しませるために、まず楽しい場所を作る。そしてそこへみんなを呼ぶ。連れてくる。
そうやって楽しいの輪を広げていくのが彼女のやり方。そして、その“楽しい”とは、まず自分自身が楽しいと感じられること。
彼女は常に先頭に立ち、みんなを照らし、誰かを引っ張っていく存在。誰よりも輝いて、楽しいことを率先して行い、周りにそれを広げていく。
たしかに、それでは光で照らしても中々動き出せない人もいるかもしれない。照らしきれないかもしれない。でも、彼女の光が、熱が、誰かを勇気づけ進むための力になることに変わりありません。
自分が一番楽しいと感じることだからこそ、その輝きを余すところなくみんなへ伝えられる。自分自身が輝けるモノだからこそ、周りを夢中にさせることができる。
彼女自身が光と熱を持てるからこそ、周りへとその光を届け、熱を伝えられる。楽しいことを探している人も元気がなくて落ち込んでいる人も気が付けば夢中になってしまっているような存在。
それが彼女の本質なのだと思います。
おおげさに聞こえるかもしれませんが、その姿は夜空に煌めく一等星であり、青空に燃える太陽なのです。
大胆で、繊細で……。
藤島 慈という少女は、ともすれば自己中心的で自分が良ければ全て良しとそう断言してしまうような性格をしています。
目的のためなら多少の周囲の迷惑や混乱は仕方ない、でもみんなが楽しくなれるなら良いでしょう?と考えている節があります。
しかし、その言動で周囲への優しさが損なわれるはことなく、彼女なりに考えてのことであることが多くあります。
温泉旅館でのお手伝いを企画した際には、一番貢献できたユニットのみがライブを開催でき、豪華な料理を食べることができる。という風な説明をしていましたが、その実、どんな結果であれ3ユニットともライブもできるし料理も食べられることになっていました。
ではなぜ貢献度勝負という名目をつけたのかというと、それぞれのユニットに“ライブに絶対に参加できるわけではない”ということを知ってほしい。気が抜けたままではいけないと気づいてほしい。という思いからでした。そして、温泉旅館でのお手伝いでトラブルが発生した際は、自分の失敗だと認め、責任を取るために自分1人で旅館の手伝いを続ける描写もありました。
結果的にはその行動は間違っていたと彼女は認めますが、自分の行いが失敗したのならそれをリカバリーしようとしています。
大胆で周囲を顧みない行動の裏には、しっかりと周囲への思いやりが込められていました。
また、彼女は大胆な行動も多く目立ちますが、それと同じくらい繊細な場面も見受けられます。
そもそも、物語開始時点でステージからの転落という事故の後、怪我が治ってもステージ上でのパフォーマンスができなくなり半ば引退という状況にあったことを考えれば、彼女の繊細さを伺うこともできるでしょう。
そして、シャッフルユニットとその後の幼馴染との喧嘩を見れば彼女の自己肯定感の乖離を窺うことができます。
彼女にとって、特定の失敗や敗北とは自信を損ない自分の弱さを直視してしまうモノだと考えられます。
例えばラブライブ決勝で負けてしまったことは彼女にとっては悔しさを覚え、次こそはと闘志を燃やす“敗北”でしたが、そもそもライブを完遂できなかった転落事故ではステージに立てなくなるほどの“トラウマ”になってしまいました。
そして、シャッフルユニットを行うことになったきっかけの喧嘩では、幼馴染に間違いを認めさせてやると意気込んでいましたが、幼馴染のやりたかったライブを見せつけられその後の練習ではうまく噛み合わなくなっていました。
そのことを受け、幼馴染は自分がいなくてももう充分に前へ進めていると思って、さらには自分はこのままでは幼馴染の隣にいる資格がないと思い至り旅へと出ようとしていました。
結局は幼馴染に励まされ、一緒にこれからもステージに立つこととなりましたが、彼女が“折れて”しまったことには変わりがありません。
自分にとっての敗北のラインを超えてしまった時、ポッキリと心が折れてしまう。そんな脆さも彼女は抱えているのです。
普段は大胆不敵で自信に溢れる彼女。
しかし、その自信が剥がれた先にいるのは、脆く傷付きやすい普通の女の子。
そんなギャップすらも、彼女の魅力の一つだと思ってしまいます。
そして、そんな彼女が困難を乗り越えた時、彼女の纏う輝きは、熱量はより一層大きなものになるのです。
藤島 慈に惚れたわけ
私が今まで見てきた藤島 慈というスクールアイドル/女の子。
彼女を評する言葉は“太陽”だと思うのです。
可愛くて、あざとくて、誰よりも楽しいに全力。
努力家で、輝いていて、特別であり特別ではない。
自らが輝き、周りを照らす存在。その熱量で多くの人を魅了し上を向く支えとなる。
弱い部分も確かにあるけれど、それ以上に彼女は力強く有らんばかりに光って見える。
そんな彼女が好きで、だからこそ彼女の行く末を見届けたい、と思います。
おわりに
いかがだったでしょうか?
私なりに今までの活動記録やWith×Meetsを観てきて考えてきたこと感じてきたことを文章化させていただきました。
公式からの感想文という企画でこうした文章を書く機会を頂けたことで自分の中でももう一度、藤島 慈という人について考えることができ、彼女の形を再び見つめ直せたと思います。
これを読んだ方はもしかしたら、ここは違うんじゃないか?という声もあるかもしれません。逆に同意していただける部分もあれば良いなと思っています。
私は解釈は人それぞれ千差万別だと思います。なので、私のこの文章をあなたの解釈の一助として役に立てていただければ嬉しいなと思っております。
もし、また次の機会があれば今度は新入生のことも書いてみたいですね?
それでは、私の蓮ノ空感想文は以上となります。
ここまで読んでいただきありがとうございました。皆様にまた会う機会を楽しみに、X(旧Twitter)の森へと帰りたいと思います。
皆様、さようなら。
P.S.
次回あればその時は徒町 小鈴ちゃんについての執筆になると思います。
彼女もまた、努力の人であり、それでいて輝きを求める人であると思いますので。
とても、とてもこれからの彼女のストーリーも楽しみですね。
あ、それと
めぐちゃん大好きです!!!!!!愛してる!!!!!
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