ブルックリンオシャレフ××ク決めやがったな! 的なアレ
2010/1/16に発表した記事です。
観たのはもうかなり前の話になる映画について簡単に。
ネタバレもありますのでご注意ください。
基本的に恋愛ものは観ないのだけども、家族がレンタルしてきたので観ることになった。そういう恋愛ものに疎い私の書く感想です。
「恋愛小説が盛り上がるためには“障害”が必要です」と教育テレビの番組の中で、池澤夏樹は静かに語った。 基本的に受け手は、その障害にやきもきしつつ、ふたりの心情に共感しつつ、その行く末を見守る、というのが恋愛ものの楽しみ方の王道なのだろう。
それにあてはめるならば、「エレジー」も「ベンジャミン・バトン」もそれは「老い」です! と言うことになるだろう。エレジーの主役の男は壮年期を終え、人生の黄昏がすぐそこにある。ベンジャミン・バトンにおいて、男は若返って行くが、女は老いていく。
しかしながら、「ベンジャミン・バトン」はともかく、「エレジー」における「年齢差」と言うのは、果たして恋愛の障害として機能しうるセッティングなのだろうか? ほとんど無効なのではないかと私は思う。実例はごまんとあり、先駆けた作品は山ほどあるからだ。
それに加えて、主人公の男の「老い」と「孤独」も描かれるわけだが、彼の「孤独」は人間が人生の過程において不可逆的に受け入れざるを得ない「孤独」というよりは、むしろ「自由」と引き換えたものなのである。彼には数十年来のベッドを共にする女友達がいる。しかしながら彼女には夫がいる(ような設定だった記憶がある。間違いだったら予めお詫びしておきます)。つまり、夫として家族としての束縛をされず、恋愛の楽しい「自由」なところだけを愉しんできている。友人はほとんどいなくて、その友には先立たれてしまう。でも、それは彼が望んで友を作らなかったからだ。彼の境遇ではなく、知的な信条によって、「好きでやってきた」結果がそれなのだ。
浅い。孤独が浅いのだ。
そんな男が、「俺……今まで自由に生きてきて……ひとりの女にハマるのはごめんだと思ってたけど……あの子のこと大好きになっちゃった……でも俺爺さんだし……いつか見捨てられるの怖いし……だからむしろこっちから別れちゃう!」って彼女の前から去ったとしても、観ている側にとっては「何それ?」なのである。共感の余地ゼロなのである。
この時点で恋愛物語としての前提を失ってしまった「エレジー」が、(少なくとも私にとっては)面白いはずがなく、残念ながらあんまり面白くなかった。「面白くなかった」と言うことで記憶に残った映画だった。
そんな中ペネロペ・クルスの美しさは際立ってますけど。前髪パッツンも、ワンレンも、ショートヘアも、なんでも可愛い。まさに地中海の至宝。ペネロペ綺麗だよペネロペ。生で見たらどんだけ綺麗なのペネロペ。あんたの美しさは本当にすごいよ。脱帽です! ありがとうございました!
「エレジー」は、大体そんな感じです。
「ベンジャミン・バトン」は、後半への伏線は張られつつも前半は文字通り彼の「数奇な人生」の描写が続く。そのパートが良い。ファンタジックな設定ではあるが、そんな孤独をまとって産まれた彼が、周囲の人に受け入れられて成長していくところが実に良い。
後半の恋愛パートは実にどうでもいい。年齢が反転していく男と普通に年をとる女、というのは「障害」にするには難しすぎたのだろうか。盛り上がりに欠け、ベンジャミンの人生自体も流転して行って面白そうなのに、その描写もさっぱりである。浅い。恋愛ものにしたかったけど出来ませんでした、みたいな中途半端さを覚えた。
ブラッド・ピットとケイト・ブランシェットがもったいない。
前半は面白かったのに残念です。恋愛はあくまで添え物で、映画の主題は彼の人生なんだ、と弁護しようかとも思いましたが、それにしては後半は恋愛に比重が偏り過ぎており、やはりラブストーリーと捉えざるを得ません。
「ベンジャミン・バトンの数奇な人生」は、大体そんな感じです。
ちなみに今回の記事のタイトルは、「エレジー」の恋愛模様があまりに「代官山オシャレフ××ク」的だったのに憤慨した私が呟いた感想より。元ネタをご存じない方は検索してください。すぐわかります。