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【映画感想】ラースと、その彼女

2009/11/24にアップした文章です。

 ネタバレしておりま。す


 2008年アメリカ、映画。
 北米の田舎町に住む青年、ラースは心優しい好青年だが極度にシャイで、特に女性が苦手だった。そんなラースがある日、女友達を家に招く。ラースを心配していた家族は喜んだが、その喜びは混乱に変わった。なぜなら、ラースが連れてきた「女友達」は“リアル・ドール”(セックスをすることが出来る等身大の人形)だったからだ。

 とまあ、こんなあらすじです。

 ギリシャ神話の「ピュグマリオン」然り、80年代ハリウッド映画の「ブレードランナー」然り、人間が人形に恋をする、というモチーフは枚挙にいとまがない。
 また押井守の映画「イノセント」においても、「人はなぜ人形を作るのか」というテーマは鋭く追及されている。
 人はなぜ人形を作るのか。
 人形遊びをしたことがない女の子はいるだろうか。私は人形遊びをしたことがある。お遊びのなかで人形は、お姫様にもアイドル歌手にもなった。それまそのまま幼い女の子の憧れの投影であり、理想の自分の写し身であると言えはしないか。
 男の子のおもちゃ箱の中にも、ヒーローの人形やロボットがあったはずだ。彼らを操ることで男の子はヒーローそのものになる。少年たちは万能の自分をそこに見てはいないか。
 つまり人形とは、自己の鏡、それも思いきり理想化された己をそこに見出すツールとして機能していると言えるのではないだろうか。

 映画の話に戻ろう。
 ラースは生まれた時に母親を失っている。そして、陰気で無口な父と、父を厭い早々に家を出た兄との3人家族で成長してきた。兄が家を出たあと、父は死んだようだ。兄は妻を連れて家に戻り、ラースは実家のガレージを改造して住んでいる。
 母が産褥で亡くなったことが、彼を苛んでいる。彼は自分をうまく肯定することができない。自分さえいなければ、母は死ななかったのではないか。そう彼は思っている。
 人間の成長において、自我の確立があり、続いて他者を受容する、という過程を経て、人は他人と心を通わせることができるようになっていく。
 だからラースは、他人を受け入れることができない。それは知らず知らずのうちに、他人に触れられることを実際の痛覚として感じてしまうほどに、彼を苛んでいる。
 だが、ラースは決して他者が嫌いなわけではない。妊娠中の兄嫁のことを心から心配している。母と同じような目に彼女が遭わなければいいと望んでおり、産褥の彼女に万が一のことが起こることにひどく怯えている。
 人に愛されたい、人を愛したい、という根源的な欲求をラースは持っている。
 けれども、不安定な自己同一が、それを損なっている。
 この大前提を、覚えておいてほしい。

 そんなラースがリアルドールのビアンカを恋人だと信じ込み、ふるまう。彼はビアンカと心行くまで語り合う。ビアンカの出身地、両親、職業、生い立ち、宗教、倫理観。ラースは知悉している。
 映画を観ていくにつれ、我々は気付かされる。
 ラースとビアンカのプロフィールはほとんど同じである。特に注目すべきなのは、ビアンカの両親も彼女が生まれてまたすぐ死んでいることだ。つまりラースは、ビアンカに自己を投影しているのだ。
 満たされない心を言葉にする。それはひとつの治療と言える。普通の人は、身近な人にそれをすることで安定を得たり、カウンセラーにかかったりするのだろう。けれどもラースは、他人のことが「よくわからない」のだ。だから、生身の人間にそれをぶつけるのが怖いのだ。だけれども、「人間」に聞いてもらいたいのだ。
 だから、「人形」を彼は選んだのだ。
 そしてラースは語り続ける。自分がどうやって育ってきたか。何が得意か。何が苦手か。父はどんな人だったか。そうやって自分をたどり始める。彼が、どうやっても上手に見つけられない「自分」という存在を、ビアンカの中に落とし込んで、輪郭を浮かび上がらせる。
 それは彼がもう一回、成長をやり直すためのリハビリテーションである。
 この時点ではラースとビアンカはほとんど一心同体である。けれども、そこに齟齬が生じる瞬間が生まれる。ラースがやり直した成長が、ある一点に到達したとき、それは訪れる。つまり、分裂していた自己をラースがビアンカの中から拾い上げ、己の中に再びおさめた瞬間、と言っていいと思う。ラースは、ビアンカを自分に同一化させることがうまく出来なくなる。なぜなら、ラースという「自己」はここにいるから。この瞬間、ビアンカは他者になる。
 今まで、つるりとした凹凸のない、ただ自分を受け入れるだけの器だったビアンカが、急に異物感のある存在に思えてきただろう。ラースはビアンカを責める。
 「なぜ僕と一心同体でいてくれないのか。」
 「なぜ僕を一人にするのか。」
 それは、他者というひんやりとした存在感に触れた時の違和感であり、世界が広がる瞬間の恐れと軋みである。
 生まれて初めて幼稚園につれて行かれた幼児でも、泣き叫ぶ子がいる。それと同じだ。
 そうやってラースは、「他者」を学ぶ。彼のリハビリテーションはこれからが正念場だ。ビアンカを自分を受け入れない他人として拒絶し、新しいビアンカを求めるのか。それとも、ビアンカを足掛かりにして、他者を受け入れるのか。
 結論をいえば、ラースはビアンカを「殺す」。
 自己同一を終わらせ、他者を受け入れる心の基盤を作るまの再成長を終えたラースには、もうビアンカという「理想の自分」を落とし込む対象は要らない。
 だから、ラースはビアンカとさようならをしなければいけない。
 そして、彼の不思議なイニシエーションは終わるのだ。

 一人の孤独な青年の、そういう再生の物語なのである。

 この映画をファンタジーたらしめているのは、そんな奇妙な青年に対する周囲の人々の温かいまなざしだ。最初はみな、もちろん驚く。けれども、街の人たちはそんなラースを受け入れ、また、ビアンカをも受け入れる。
 挿話として、ラースを侮蔑する人物の存在も描かれる。だが、全体的に、ほとんど有り得ないくらいの節度と温かさでもって、街の人たちはリアルドールを青年の恋人として扱い、遇する。
 なぜか。
 ラースの会社の同僚が云い争うシーンにそれは象徴されている。お気に入りのアクションフィギュアを隠された男性が、いたずらをしかけた女性に対して怒る。「あれは俺の大事なヒーローなんだからな」と云うようなことを彼はいい、女性が大事にしているテディベアを指して「こいつがどうなっても知らないぞ」と脅かす。女性はそれに対してテディベアにいたずらをされることを恐れて、フィギュアを彼の元に戻す。
 人形やぬいぐるみに対し、ただのモノ以上の愛着を抱き、自分の分身のように接しているのはラースだけではないのだと、彼らは無意識的に気付いているのである。
 ラースを異常な、頭のおかしい、病んだ男として遠ざけるのは簡単だ。けれども、自分の中にラース的な部分が一か所でも無いと、どうして言えるだろう?
 そしてそれは、そのまま観客に提示された命題ともいえる。
 己を損なってきた、致命的な痛みを抱えていないといえるだろうか?
 それによって、「生きづらい」と感じる瞬間が、ないといえるだろうか?
 その痛みをリハビリテーションしている男を誰が嗤えるだろうか?

 ビアンカという人形に対する振る舞いが、その問いに対する答えをそのまま映し出す。ここでも、「人形」は人間の鏡なのである。


 とまあ、小難しいことを並べましたが、とてもハートフルな話です。観終わった後、素敵なプレゼントをもらったような気持ちになりました。それと、役者さんも素晴らしかったです。 久々に「いい映画」を観ました。

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