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古今東西刑事映画レビューその11:ザ・ガード ~西部の相棒~

2011年から2015年の間、知人の編集する業界誌に寄稿していた刑事物映画のレビューを編集・再掲します。

2011年/アイルランド
監督:ジョン・マイケル・マクドナー
出演:ブレンダン・グリーソン(ジェリー・ボイル)
   ドン・チードル(ウェンデル・エヴァレット)
   リアム・カニンガム(フランシス・シーヒー=スケフィントン)

「西部」とあってもテキサスではなく、「相棒」と言っても即席コンビ。日本でDVDを販売する際に付けられた副題「西部の相棒」は、ともすれば誤解を招きそうなそれである。もし西部劇を熱狂的に愛する人が、レンタルショップに並ぶDVDの中にこのタイトルを見つけたら、新作の西部劇と勘違いして、飛び付いてしまいそうだ。
 粗筋もよく読まずにDVDをレンタルしてしまった熱狂的西部劇ファンはガッカリするかもしれない。それどころか、観ずに返してしまうかもしれない。もし、そんな人がいるとしたら、私は一声かけなければならないだろう。「面白いから絶対観て!」……と。
 この映画は西部劇ではない。テキサスから7,000km離れたアイルランドの西海岸が舞台だ。孤高のガンマンもいない。いるのは、アイルランド人の巡査部長と、はるばるアメリカからやってきたFBI捜査官だ。
 アイルランドの海岸沿いの一本道を、スポーツカーが疾駆していく。それが映画のファーストシーンだ。黒いアスファルトと鉛色の海に、深紅のスポーツカーはひときわ目を引く。車内では若者がヒップホップをガンガンにかけ、体を揺らしている。さて、主人公は誰だ? と観客が彼らに目を向けた瞬間、車はスピードの出し過ぎで横転し、彼らは道に投げ出される。
 この出鼻をくじく感じ。そしてその場にのっそりと現れた、腹の突き出た中年の警官。巡査部長、ジェリー・ボイル。彼の投げやりで気だるそうな表情。若者たちのポケットからドラッグを見つけ、それをあっさり海に投げ捨てて彼はつぶやく。「ママが悲しむぜ」。この、ふてぶてしい感じ。我々はすぐに気付かされる。この映画はちょっと違うぞ、と言うことに。
 まずこのジェリー・ボイルと言う男。フィクションに登場する「警官」のセオリーからかなり遠いところにいる。殺人事件現場では、現場保存の鉄則を平気で破るし、勤務中もやる気が有るのか無いのかよく解らない。私生活も含め、品行方正とか、清廉潔白と言う言葉で言い表すことの出来るような人物ではない。だからと言って、根っからの悪人かと言われるとそれも違う。地元のギャングには「あいつは金では買えない」と評されている(他の警官が悉く彼らに買収されているにも関わらず)。病身の母親にも、心の底から愛されている。正義漢でも悪代官でもない。口が悪いだけなのか、哲学を秘めた言葉なのか。何も考えていないのか、確信犯なのか。中々輪郭がつかめない。食えない、ふてぶてしい、そんな言葉がぴったりの男なのだ。
 幸か不幸か、ボイルと即席で相棒(バディ)を組むことになるのは、ドン・チードル演ずるFBIのエヴァレット捜査官だ。5億円の麻薬取引を阻止するためにアメリカから来た彼は、典型的な切れ者捜査官として描かれている。彼のマトモさや怜悧さに比例して、ボイルの不穏さが更に面白く感じられる。エヴァレットも観客と同様に、ボイルの人物像が捕まえられなくて手を焼くことになるわけだが、この2人のやり取りもまた良い。バディものにありがちな軽口の応酬だとか、オシャレなフレーズなんてものは無い。毒舌まみれのやり取りと、差し挟まれるオフビートなユーモア。たとえばこんな具合だ──ボイルの奔放な言質に苦言を呈するエヴァレットへ、ボイルはこう切り返す。「適切を求めるなら、アメリカへ行け」。
 常に明確で明朗で、収まるべき場所に物事が収まっている。それを「適切」と言うのなら、確かにボイルは適切な人間ではないだろう。しかし、本当に「適切」な人間がこの世にどれだけいるだろうか。この映画に出てくる地元の住人や事件の関係者、悪人たち。それぞれ登場する時間は短いけれど、皆それぞれどこかに「不適切」な部分を持っている。それはその人の持って生まれた性がそうさせていることもあるし、逆に環境によって「不適切」にならざるを得なかった人もいる。決して映画の前面には出てこないが、この作品はそう言ったことをちゃんと描いていて、観終わったあとに意外に心に響いてくるのは、そんなシーンだったりする。
 その最たるアイコンがジェリー・ボイルだ。常にいい加減で不適切、しかし物語の最後には、その太鼓腹を揺らして、きっちり仕事をする。典型的なヒーローでは無いけれど、実に魅力的な男に出会ったのだと言う確信を得て、我々はエンドロールを眺めることになるだろう。
 背景のアイルランドの曇天模様のように、何とももやもやっとした作品だと思われる方もいるだろう。ただ、画面の端々に写りこむ、たとえばボイルの履く靴下の、濃紺とオレンジのコントラストや、子供が乗る自転車のホイールのフューシャピンク、そう言った鮮やかな色彩をふとした折に思い出すと同じように、人物の造形や語る言葉が、ひっかき傷のように心に残る。ハリウッドの西部劇のような「適切」さは無いかもしれない。物語の進み方はのたりのたりとしているし、説明不足の感も否めない。しかしその「不適切」さもひっくるめて面白い。それも、特別に面白い映画なのだ。

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