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古今東西刑事映画レビューその20:ガントレット

2011年から2015年の間、知人の編集する業界誌に寄稿していた刑事物映画のレビューを編集・再掲します。

1977年/アメリカ
監督:クリント・イーストウッド
出演:クリント・イーストウッド(ベン・ショックリー)
   ソンドラ・ロック(ガス・マレー)
   ウィリアム・プリンス(ブレイクロック)

 またしてもクリント・イーストウッドの登場である。セレクトに些か偏りがあることは十分承知しているが、「警察もの映画」を浴びるように観ようと思ったら、この人の作品を避けて通ることは不可能なのだからしょうがない。主演作(ダーティ・ハリー)、監督作(ミスティック・リバー)とご紹介して、今回は主演+監督作である。
クリント・イーストウッドが主演と監督を務める作品は、どうも主人公がヒロイックになり過ぎるきらいがある。……と、筆者は“ミスティック・リバー”の原稿で書いた。悪いことと言いたい訳ではない。すこし気になる、そして、主演か監督、どちらかだけを担当している作品の方がより好きだ、という程度の話だ。そんなわけなので、きっと一分の隙もない切れ者刑事が活躍する渋い作品なのだろう、という先入観の元にこの映画を観はじめたのだった。
だが、この予想は、映画が始まってから3分も経たないうちに覆されることになる。アリゾナ州フェニックスの朝焼け。赤く染まる街並みの中を、1台の自動車が走り抜ける。やがて車から降りてきたのは、イーストウッド演じるショックリー刑事だ。彼の手から滑り落ちてアスファルトを濡らしたのは、小瓶の中のウィスキー。長い手足を持て余すようにして建物の中に入って行く彼は、明らかに酔っている──。
「ダーティ・ハリー」的一匹狼の匂いを漂わせているが、ショックリーはハリーよりも更にはみ出し者の刑事である。無精ひげ、よれよれのスーツ、そして酒に濁った表情。その身なりのまずさを、元相棒の刑事にたしなめられ、古女房のように世話を焼かれる始末だ。そして、元相棒と交わす冒頭の会話のシーンで、ショックリーの私生活が良くない状況であり、また署内の出世レースにおいても同僚に水をあけられていることがさりげなく明かされる。イーストウッドがそれまでに刑事映画や西部劇でこなしてきたタフな男性像とは、だいぶ趣を異にする男なのだ。
ショックリーが任された仕事は、ラスベガスに留置されているとある人物を、裁判の証人としてフェニックスまで護送することである。現地の留置所で出会ったガス・マレーと言う名の証人、名前は男性的だが、金髪の可憐な女性だった。見た目は可愛いが口の悪い彼女の職業は娼婦であり、仕事を通じて得た情報が裁判の証拠になると言う。
彼女は護送を拒む。自分の命がマフィアの賭博の対象になっており、フェニックスに生きて辿り着かないよう、ならず者たちが命を狙ってくると言うのだ。ショックリーはそれを信じず、暴れる彼女をストレッチャーに縛り付け、救急車で空港に向かう。その道中、謎の人物から銃撃を受けた彼ら。マレーの言ったことは嘘ではなかったのだった。
 かくして、ショックリーとマレーの逃避行が始まるのである。そんなに登場人物も多くない本作、悪役はわりとあっさり看破することが出来る。むしろ、いつまでも黒幕の存在に気づかないショックリーに、観ているこちらがヤキモキするほどである。
実のところ、彼がこの任務を命じられたのは、彼を優秀だと引き立てる上司がいたからではなく、彼が愚鈍だったからなのだ。そして、マレーを殺害しようと企てる者たちは、ショックリーの命など露ほども気に留めていない。流れ弾に当たって死のうが知ったことではないのだ。
それに気づいたショックリーは、その瞬間、何としてでも生き延び、今度こそまっとうな人生を送ってやると心に決める。一方のマレーも、体を張って我が身を守ってくれるこの中年刑事に少しづつ信頼を置き始め、最初は殴り合うくらい険悪だった2人の間に、やがて愛情が生まれる。そして2人は、このいまいちさえない人生を、互いの力で引っ繰り返すことを誓い合うのだ。そのために、弾丸の雨をかいくぐり、艱難辛苦を排して、フェニックスの裁判所にたどり着かなくてはいけない。2人で手に手をとって逃げ出すことも出来るだろう。けれども、それでは駄目なのだ。この状況を自分の力で解決しないことには、新しい人生を始めることが出来ないのだ。
 もしかしたらそのショックリーの姿は、西部劇やダーティ・ハリーでの成功の反面、固まってしまったイメージを打破しようとする、イーストウッドの試みであり、またそんな彼自身を強く投影した姿だと言えるかもしれない。
 このように心理的側面が前面に出ている作品であるが、その他の演出も見逃せない。ショックリーとマリーは物語を通して数万発の銃弾を浴びせられる羽目になるのだが、その破壊力の凄まじさはまさに一見の価値あり。フィクションと解っていても「よく生きていたなあ」と思わず感心してしまう圧倒的火力である。
 そればかりでなく、舞台の砂漠ならではの強い太陽光と夜の闇もまた、たくみに演出に取り入れられている。元々自然光を使うのが好きな監督であるが、この映画では、登場人物のアクションと太陽光がリンクしているのが興味深い。太陽のもとで彼らは行動し、夜の闇や薄暗い屋内では自分の人生に思いを馳せる。静と動のコントラストを強く意識しているのが見て取れる。
 砂漠というローケーションは、アクションシーンにおいても存分に活用されている。ヘリコプター、バイク、長距離列車。砂漠を縦横無尽に疾駆する乗り物が彼らの逃避行を彩る。さえないおじさんの恋愛を描いただけでは終わらない。アクションもまた十分に楽しめる、質の高い娯楽作品なのである。

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