DEEPへ
自分が参加したネオブラッド予選はとても刺激的だった。
自分に足りない物が何なのかを肌で感じて解ったし打撃であればだいたい勝てるような感覚も解った。
当時のJMMAの打撃のレベルはびっくりするくらい低かった。
基本的に強い選手と言うのは柔道かレスリング経験者で上を取って勝つと言う選手が多かった。
U-FILEは自分が入会する前には大江慎さんが打撃を教えていたので、大江さんが辞めた後もキックボクシングをちゃんとやると言う指導方針が残っていた。
自分が入ってからはプロのキックボクシングの経験もある磯崎さんが指導するようになり、組みは他所のジムより弱いけど打撃に関しては全然負けなかった。
その点については当時、プロシューターでトップ戦線で活躍されていた植松直哉さんもU-FILEの打撃を評価してくれていた。
ネオブラ出場選手では2名の選手がとても気になっていた。
1人は優勝した後のGRABAKAのヒットマンと呼ばれる三崎和雄選手。自分に判定で勝った佐藤光留選手と本戦1回戦で戦いテイクダウンすると簡単に極めていた。
その後の2回戦で三崎選手が戦ったのが山喧さん率いるパワーオブドリームの梁正基選手で2人の戦いは延長に突入する激戦の末に2-1で三崎選手が勝利するのだった。
その2選手は俺と同い年だった。今のままじゃ彼等には勝てないだろう。
勿論向こうは俺の存在など気にしていないだろうけど彼等を勝手にライバル視して、あの2人を倒す力を早急に付けなくてはと俺は焦ったのだった。
プロデビューする事に躊躇いがあった俺だったけど一戦を終えると迷いはなくなり更に強さを求めるようになっていった。
そんな時に8/18に横浜で開催されるDEEPのフューチャーファイト出場の話が自分に来た。
DEEPは当時、DEEP2001と言うイベント名で旗揚げは同年1月に行われていた。
その大会ではU-FILEから上山さんが出場してパンクラスの窪田康生選手と戦っていた。
噂になっていたのは DEEPの佐伯代表は大金持ちでDEEPはセコンド全員分の交通費や食事代まで以ってくれて宿泊するホテルもかなりお金をかけているという話だった。
ファイトマネーも良いと聞いていたが格闘技ファン目線で見ても何か間違っているのではないか?と言うイベントに対する出費の仕方であった。
一月大会ではホイラー・グレイシーとシューとボクシングで活躍した村浜武洋さんがメインで試合をしていたがグレイシー一族にどれくらいお金をかけたのだろうか?
マッチメイクもお金のかけ方も豪快だった。
佐伯代表はリングスとも繋がっているようで自分が出場する予定の横浜大会には坂田亘さんも出場予定。後に大活躍するノゲイラ弟のホジェリオもエントリーしていた。そしてまた何故か上山さんが窪田選手と再戦する事にもなった。
プロ練
試合に出場するようになってから田村さんが我々にプロ練の参加を許可するようになった。
土曜の昼に行われる練習でそれまでは上山さんと田村さんがサシでやっていたようだ。
ジムの営業時間外なので道路沿いのシャッターは閉められ暗い雰囲気の中で行われていた。
この頃の自分のレベルは上山さんとは練習にはなっていたけど田村さんにはいつも圧倒されていた。
とにかくパワーが桁違いだった。
平日の夜も田村さんとスパーをさせて貰う事はあるのだがプロ練となるといつもより殺気があった。
また田村さんは礼儀も厳しく、田村さんのスープラジムの前に止まると入り口で全員で並んで待ち声を揃えて「お疲れ様です」と言わなければいけなかった。
またその後も田村さんにはジム内ですれ違うたびに「お疲れ様です」と言わなければいけない。
UWFはそうだったのか?
1日で10回以上田村さんに「お疲れ様です」と言うのだが現場仕事を毎日やって練習に来ている俺の方が田村さんより確実に疲れている自信があった。
小さいキッチンタイマーでスパーの時間を測っていた。小さ過ぎて扱い辛い正方形のものだったがスパーを抜けている人が時間を測る役だった。
自分が次にスパーに入るので休みになる田村さんにお願いしますと頭を下げてからタイマーを渡すと「両手で渡して」とギロッと睨まれた。
「すみません」と答えたが、会社の親方に何か渡すにしてもこんな事はないし一般社会とかけ離れた異常な世界だとこの時は感じた。
練習を終えると上山さんの作ったちゃんこをご馳走様してもらえた。鶏肉が入ってヘルシーでゆで卵も沢山あって美味しかった。
しかし田村さんがいるので空気は重くお通夜のようだった。
ただ機嫌の良い日の田村さんは笑顔でいろいろ話してくれるのだった。
田村さんはプロ練に毎週来て良いと言うのだが自分は仕事なので休みにならない限り土曜の昼は来れないと伝えると「仕事休めばいいじゃん」と言う。
それが本業で生計を立てていた俺からすればおかしな話だった。
この頃から田村さんの考えている仕事とお金に関しては自分の考えとは大きく違うと思うようになった。
太志朗と佐々木はプロ練でやっていくと決めて俺の土曜の夜の練習相手は急にいなくなってしまうのだった。
肋骨
ジムでのグラップリングのスパー中、相手を投げたのだが投げた後の相手の膝が自分の肋骨に刺さると言うアクシデントが起きた。
肋軟骨の損傷と言う状態だったが咳をするだけでも激痛が走った。
試合前なのにヤバいと焦った。
力を出すような事は一切出来ない。仕事も行けなくなってしまった俺は何故か車で実家に帰った。
夏シーズンの故郷、山形県鶴岡市はとても楽しいのだ。
海があって友達も沢山いる。
毎日整骨院に通いながら夜は仲間と集まり飲んだ。一週間は治療だけに専念して次の週からはゆっくりと走り出した。
高校時代にトレーニングしていた小真木原陸上公園の中で走りその後は手と足に錘をつけてシャドーを繰り返した。
土日は浜でバーベキューしたりもしたのだがその前に海岸線を走って試合に備えた。
怪我をした日から2週間ぐらいになると肋骨の痛みは治ってきたので再び登戸に戻った。
ジムに戻った俺が佐々木恭介とスパーをするといきなり投げて腕を極めていた。
なんか強くなっている感じがした。
振り返って分析をすると当時はほぼ毎日がオーバーワークの状態だった。
怪我が理由ではあるが練習と仕事を2週間も休んだ事で疲労が抜けて、その状況でも田舎でエクササイズ的な事を続けたのもプラスになったのだと思う。
しかし2週間も仕事を休んだので給料はその分がない。
家賃も食費も必要なので国道のアコムのATMで金を借りてきた。
やっている事はめちゃくちゃだと今になると思う。
フューチャーファイト
仕事も復帰して暑い夏の生活を過ごした。多摩川の河川敷をランニングする事が多かった。
試合の体重契約は75kgと言われた。
2、3kg体重は重かったので減量をしなければいけない。
しかしU-FILEには減量をしている人が1人もいなかった。
皆が増量しようとしているジムだった。
田村さんにどのように減量すれば良いかを聞いたのだけど全く解っていないようだった。
とりあえず夏なのに厚着をして夜中に走った。
一生懸命に食べて増やしている体重を落とす事には抵抗があったのだが試合の1週間前くらいに上山さんに「計量は無いそうだよ」と伝えられた。
体重はだいたいの目安でそれぐらいであれば良いと言うものだった。
試合会場には自分の車で皆を乗せて行った。
俺以外に松田恵理也君もフューチャーファイトに出場し大久保ちゃんはカトクンリーと言うルチャの選手と本戦で試合が決まっていた。
自分の相手はピーズラボ横浜の富山浩宇選手と言うインストラクターもしているレスラータイプの選手だった。
会場に行くと無いと言われていた計量があった。
参考にだけと言う話だったのだが俺が体重計に乗ると77kgあった。
相手の富山選手は68kgしかなかった。
どっちが75kgに近いかと言われると俺なのだが富山選手は軽くても自信があったのだろうか?
今とは違い体重に関しては適当な時代だった。
会場はちゃんと照明もありネオブラ予選よりは明らかにプロっぽいステージだった。
自分の前の試合で恵理也君は得意の打撃でKO勝ちをした。
続く俺はシングルレックに入られた状態で相手の側頭部に鉄槌を何発か打った。
レフェリーが割って入って反則だと言う。
意味が全く解らなかった。
ルールはスタンディングの打撃はOKでグランド状態の打撃は一切禁止だったはずだ。
意味は解らなかったけど手を合わせてすいませんのポーズをした。
再開後、俺がインローを放つと富山選手は大きく倒れた。
すかさずバックを奪うとチョークの体制になった。
実はチョークスリーパーはあまり使わない技だった。腕関や足関を好んで使っていたのでチョークの締め方がよく解っていなかった。
セコンドに付いてくれた田村さんが腕を後ろに回せと言っている。
その通りに腕を回しフルパワーで一気に締めると試合は終わった。
しかし締めたパワーで自分の肩がバギバギ鳴って痛めてしまった。
本戦に出ていた上山さんは一月に続き再び時間切れドローとなるも大久保ちゃんは勝って田村さんの機嫌は非常に良かった。
大会終了後は横浜文体近くのちょっとしたレストランみたいなところでU-FILEで打ち上げを行うとの事だった。
少し前に“U-FILEファンクラブ”なるものが発足してその第一回の交流会を行う為だ。
U-FILEファンクラブと言えど上山さん以外は皆無名選手しかいないので実態は田村潔司ファンクラブであった。
この時間、田舎から応援に来てくれたトモちゃん達が近場で俺と飯を食おうと待っていてくれた。
俺はファンクラブの会から抜けてわざわざ来てくれた仲間に会いに行きたかった。
実際、田村さんのファンが来ているだけで俺達の存在の意味は無い場所だった。
会も2時間近く経過し、田村さんの相談役っぽいポジションだった磯崎さんに友人が田舎から来ているのでそっちに移動しても良いか?と聞いた。
会自体もうグダグダ感があったし磯崎さんも「もういいだろう」と言って俺を田村さんのところまで連れて行き友人達が遠くから来てくれている状況を説明してくれた。
しかし田村さんがう〜んとちょっと悩み言った言葉は「駄目だよ。仕事なんだから」だった。
俺は5月の10,000円のギャラすら貰っていなかった。
結局最後までいる事になりファンクラブの会員を見送った後に待ちくたびれたトモちゃん達と合流して彼らに謝った。
自分の思っていた事を正直に書いているので不満めいた話が多くなってくるがこの時点では序章にしか過ぎなかった。
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