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01 仕掛け

 全くいつも通りの朝だった。

プロレスラー・豊田守は寮のベッドで目を覚ました。
まだ空は薄暗く、部屋に差し込む光の仄かな気配は夏が終わってしまったことを彼にはっきりと告げていた。

ん・・・・

と、ベッドに横たわったまま伸びをする。
バキバキと体が唸りを上げる。
連日の激しい試合で、寝起きにはすぐに動き出せない。
首を回し、背中をほぐし、腰をゆっくりと動かす。
ググググググ・・・・・と、身体中の細胞が目を覚ましていく朝のこの瞬間を、彼は愛していた。

身を起こすとフンっと、一つ息を吐く。
これで体は軽くなるような気がする。
心身の充実というにはいささか淀んだ気分ではあるが、
しかし彼はその生活を愛していた。

階下に下りると、新弟子たちが早くも朝食を作り出していた。
慌ただしく動き回る彼らに10年前の自分を写し込む。
階段の軋む音でどの先輩が起きてきたかを察知していた、
あの緊張に包まれた生活を懐かしく思い出す。

「おはようございますっっ!!!!」

若手二人の元気のいい声が朝の寝ぼけた鼓膜を貫いてくる。

「うるせえよ。おはよう。」
別にそんな気張って挨拶しなくってもいいよ。

そんな気持ちで、そう答えた。

二人の坊主頭の新弟子は、へへ・・・と、愛想のいい笑顔を彼に向けた。
まだ静かな、ほとんどの人間が眠っている朝のことだった。

朝の8時にもなると、起き出してきて選手たちは寮に併設された道場に集まってくる。各自が思い思いの練習をして体を動かして、プロレスラーとしてのスイッチを入れていく。スクワット、プッシュアップ、リングの上でのスパーリング。マシンを使ってのトレーニング。

様々な景色がある。
新弟子たちは道場の隅で必死になってスクワットをしている。
もうすでに汗が滝のように流れていて、その顔は苦悶だ。
豊田はベンチプレスを上げて、自分の肉体をパンプアップすることに余念がない。今夜は水道橋にある中規模の会場での手打ちの興行だ。
豊田は大会場ではない、今夜ほどの中規模の会場にこそレスラーとしての真価が問われる場面がいくつもあると思っている。

至近距離で観客に接する。
生の肉体と肉体のぶつかり合い。空気感。
嗅覚に頼らずとも嗅ぎ分けることのできる、匂いのようなもの。
彼はそれをこそ最も大切にしていた。

10年前。

彼が業界に入ったときには、ほとんど希望がなかった。
時代は格闘技が全盛で、プロレスラーはその土俵に無理やりにあげられて殴り倒され、無様にノックアウトされる役回りで、当然お客は引いていった。
レスラーなんか強くないんだ。
という、空気は新弟子だった彼にも影響を及ぼした。
道場にも、会社にも、業界全体に嫌なムードがあったものだ。
しかしレスラーの本当の強さはリングの上だけにあるものじゃない。
そう思って、豊田は熱心に次の手を模索した。
前時代的なプロレスファンからはバッシングを浴びる機会も多かったが、それでも必死になって這いつくばって、生き残ることを考えた。

つまり、プロレスと格闘技を分離させていく仕事を続けたのだ。
ショーアップ。キャラクターとマイクパフォーマンス。そして、格闘技では絶対になし得ない、男女混合試合。

そんなものを積極的に取り入れていった結果、お客は戻り始め客層こそ違えど会場は埋まっていった。閑古鳥が泣いていた客席に楽しそうなお客の笑顔が戻っていく様子は達成感と感動でいっぱいだった。
豊田は10年目にしてこの団体のスターであり、トップであり、そして業界全体のエースであった。

彼無くして復興はあり得なかったとさえ言えるほどだ。

そして、今日からはまた新たな試みとして男女シングルマッチから軍団抗争に発展させていくシナリオがスタートされていく予定だった。

絶対にミスできない試合はメインエベント。同じチームの海野真斗に任せて豊田はセミファイナルに出場の予定だった。


何か、ことが起こるときには前兆がある。


海野真斗が交通事故で道場に来る前に病院に運び込まれたという知らせが会社に入った。

昼前に顔色を変えた社員が練習もそれぞれ終わりぎわの道場に入ってきて、
どうやら今夜の試合にはとても間に合いそうにない。命に別状はないが、少なくとも2ヶ月の入院が必要らしい。という旨を伝えた。

「豊田・・・どうする・・・・?」

その社員と豊田との付き合いはずいぶん長い。
社員の顔には「豊田、お前が出てくれ。」と書いてあったのを彼は見透かした。確かにセミファイナルの仕事はそれほど重要じゃない。
代わりに出れば、それが一番お客も納得するだろうことは豊田にも理解できた。しかしそれではこのシナリオにストーリーができない。
ブックでは今日は海野が勝って、相手のチームが海野を袋叩きにして引き上げてそれを庇って豊田が出ていき、そこから全面的な抗争が始まる予定だがそこで豊田が袋叩きにあって仕舞えばそれを庇って出てくる役がいなくなる。

つまりシナリオが詰まってしまうのだ。

そのことを社員に説明したら、彼もうーむと言葉を詰まらせた。

「でもさ、こういうときにプロレス業界の夢が開くっていうか。」
豊田にはアイデアがあった。

「おい、そこの。ちょっと来てみろよ。」
社員が目をパチクリとさせている間に、豊田は道場の隅でプッシュアップを続けていた新弟子を呼び寄せた。豊田にとって、それがどちらでも、誰でもよかった。ただ、今日の試合にインパクトが残せたなら、それが正解だと思った。

坊主頭のまだあどけない顔をした新弟子は二人揃って体をプルプルと激しいトレーニングに震わせながら豊田の前に直立不動の形をとった。

豊田には一人はベビーフェイス、そして一人はヒールの将来が見えたから、ベビーフェイスっぽい可愛らしい顔をした方を抜擢することにした。

「お前、今日デビューだよ。」

「えっ・・・!!!いいんですか!!!???」

「ああ、ちょうど海野が怪我をしちまってな。その欠員で、いきなりメインイベントでのデビューだ。ちょっと緊張するかもしれねえが、大丈夫。俺がしっかりセコンドについてやっからさ。タイツとかシューズはあるな?」

そう豊田が尋ねると、彼は「は・・・はい!!!」と緊張し切った返事を上擦った声で返してきた。もうあらかた練習を終えたレスラーたちがたむろしていた道場は和やかな雰囲気で彼の門出を祝っていた。

「ところで、お前名前なんて言うんだよ。」

「はい!新弟子の、岡本龍馬といいます!!」

「龍馬か、いい名前じゃん。いいレスラーになれよ。そっちのも、そのうちデビューだから、気を抜かずに練習するようにな。」
少ししょぼんとした顔のもう一人の新弟子のフォローもしつつ、豊田は社員が不安そうな顔をするのを横目で見て微笑んだ。

プロレスはこうでなくっちゃいけない。

トラブルは常に、チャンスと夢の種なのだ。


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