知らない世界。
ありふれた一日だった。
田中真斗はしがない自営業で特に華々しくもなく、そしてそれほどひどくもないという生活を送ることに成功していた。
たくさん稼いだら、その時はいいかもしれないけど
次の年、また次の年と税金がのっかかってくるので
ほとんど逃げ惑うように仕事しなくちゃいけないのが嫌だ。
というのが、彼がそれなり中のそれなりという生活を送っている理由だ。
そんな彼にも、時折思い出しては胸がキュンとなる青春があった。
県大会3位。というこれまた、華々しくもなければどん底でもない成績を残した柔道という青春。厳しく辛い練習の日々と、仲間たちとの思い出。
それらは時折どうしようもなく、ノスタルジックな気分にさせてくれた。
「あー。先生たちどうしてっかな。」
パソコンを叩く手を止めて、マンションから見える夕焼け空にあの頃の空を重ねる。
「久しぶりに、」
ガサゴソ。
「畳に寝転がってみるか!」
ごそっとビニールに包まれて転がり出たのは、
あの頃自分と同じように揉まれ、育ったボロの柔道着だった。
「うんうん。まだカッコつくじゃん。」
現役時代から十年が経過して、もう随分と萎びた体ではあったが
その着こなしは健在であり少しは齧ったことがありそうな、という程度には見える。実に田中らしい柔道着姿であった。
翌日。
少年柔道時代に通った町道場に、ふらりと顔を出すと
館長が嬉しそうな笑顔を見せて
のしのしと近寄ってきたかと思うと挨拶がわりにゲンコツを一つ田中にくれた。
「このやろう!なかなか顔も見せねえで何してやがった!!」
本当に嬉しそうに綻んだ顔を見ると、
泣きそうになるものだ。
田中はイテテ、と言いながら
深々と頭を下げて「ご無沙汰しておりましてすみません!」
と挨拶をした。館長は「元気でやってたならいい!」と機嫌よさそうにまた、田中の背中をばちんと叩いた。
そこにはあの頃と何も変わらない風景があり、匂いがあった。
「あー、こんなんだった。」
天井の照明、畳の色、艶。
そこを走り回る子供達の屈託のない笑顔と、大きな声。
それを優しく見守る館長の眼差しとサポートする先生方の姿。
何もかも、ああ、懐かしいあの頃のままだ。
田中は怪我をしないように準備運動をしつつ、
館長との懐かしい話で盛り上がった。
「それで、田中は今なんの仕事をしてるわけ?」
軽妙な言葉遣いもそのままだ。
「はい、自分は自営業やってます。朝は何時まで寝ててもいいし、元来ぐうたらな自分の性分にもあってます。」
「あっそう。じゃあ、勤め人じゃねえんだ。」
「はい。」
田中は、そう答えて妙な間があることに首を傾げた。
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