戦場の悪魔〜Happy Birthday〜
※この文章は『戦場の悪魔』シリーズです。
購入の際はご注意くださいますようよろしくお願い申し上げます。
少女には時折見る夢があった。
まだ小さな頃の風景の、一瞬だけの夢。
どこなのかもわからない豪奢な家の中で大きな窓からは
綺麗な景色と差し込む西日が見える。
街中、というには妙に音のない景色は
しかしとても賑やかでいろんな人が様々に入り乱れていた。
少女は誰の言葉も聞き取れないまま、
ただ誰かに手を引かれて、そこにいた。
ただそれだけの、夢。
目を覚ますと、少女は大きく伸びをした。
部屋から見える東京の、どこにでもある町並みは
もう随分と見慣れてしまって今見た夢の残滓ですら
それを目新しい風景に置き換えることはできない。
肌になじんだ布団から抜け出すのは少し名残惜しくもあるが
もう起きなければならない時間だった。
階下に降りれば、父親がコーヒーを飲んでいた。
「おはよう。」
父親はスーツのジャケットを隣の椅子の背もたれにかけながら、
新聞に目を通していた。
「今日は祐美の誕生日だから、今夜はご馳走にしよう。」
長い長いダイニングテーブルを挟んで父親がそう言った。
「うん。」少女はいつもご馳走じゃない。と辟易とした心を噯にも出さないでそう返答をした。
少女は、祐美は、今日で16歳を迎えた。
なんの感慨もない。
無味乾燥とした誕生日の朝だった。
顔を見たこともない母親は、小さな頃に事故で亡くなってしまったのだという。だから、親子団欒という感覚がない。
気がつけばこの大人の男の人と生活していて、彼は父親という銘柄の男性だという。そういう感覚だった。
なんとなく、この父親は自分の本当の親ではないような、そんな気がしていた。少女はそれを思春期にある親族への嫌悪だと思い込むようにしていたが、日に日にその予感というのは具体的に体の中に居座るようになった。
父親の眼差しは、明らかに娘を見る目ではない。
そう感じてからは嫌悪感が増長する一方だ。
制服の、短く折ったスカートの裾が翻るのを目ざとく見つけて、
新聞を読むふりをしながらじっと見ていることを、少女は知っていた。
「じゃあ、行ってきます。」
お手伝いさんが用意してくれた朝食はいつもおいしい。
それを言葉もなく口に運ぶと、ただ重い空気の流れるダイニングを
そんな言葉を残して後にする。
「いってらっしゃい。遅くならずに帰るんだぞ。」
父親の声がそう言って、少女ははーい、と澄んだ声を返した。
外に出るとまだ夏とは言えない春の熟れた日差しが世界を照らしていた。父親への不信を除けば、金銭的に困る気配のないこの贅沢な生活に不満はなかった。
学校へ行けば友人がいて、楽しいことが溢れている。
今日も空は晴れていて心は今朝の夢のことも、そして父親への不信感も
よくあること、というレッテルにまとめて少女に忘れさせた。
いつものように1日は、過ぎていく。
あっという間に学校が終わって、少女は友人と繁華街に遊びに出掛けた。
いつものようにカフェであーでもないこーでもないと話をするだけでも人生をフルコースで味わっているような充実感を得られた。
ふと、「今日は遅くならずに帰るんだぞ。」という父親の声を思い出した。
もしかすると不信感を寄せるばかりのあの男に対して、
自分の中にも情があるのかもしれない。と、少女は思った。
あの男が自分の誕生日のためにわざわざ何かをしてくれようとしている。
そのことを思うと、少しだけ、早く帰ろうという気にもなる。不思議な気持ちだった。
家に帰ると、まだもちろん誰もいない。
父親が帰るまでは後一時間くらいはあるだろう。
少女は自分の部屋でぼんやりと明かりもつけずに窓を開けて空を見上げた。
この部屋にいると、いつも感じるこの感覚の答えを見つけるように。
籠の中の鳥のような、囚われたような感覚は
自分という命から羽を毟り取る。
空はどこまでも広くて、高い。
まだあまり長くない陽はすでに綺麗な茜色と藍色をグラデーションに重ねている。静かで、落ち着いて、でも本当の居場所はここではないという違和感のある自分の部屋。
深呼吸をすると、ついつい少女は寝入ってしまった。
開けた窓から入る少し冷えた風が時折少女の頬を撫でた。
「今日からうちの子だよ。お嬢ちゃん。」
父親の声がぼんやりと聞こえた。
暗闇のような気配の中で目を凝らして見てみると
そこにあったのは父親の顔だった。
自分はまだ何が起こっているのかわからない。
握っていた手が不意に離されて、
父親が少女を、抱き上げた。
わんわんと泣き喚く頬に父親の汚い唇がキスをした。
ただいまー。
階下で声がして、冷えた部屋のうたた寝は白黒の夢を終わりにした。
茜色はもう随分と藍色に押されて
陽の差し込まない部屋には薄暗闇が広がっていた。
なんだったの、今の。
無意識に、あの汚い唇が這いずり回った頬を少女は拭った。
まだ感覚が残っているような気がした。
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