Circle Of Pain.

　僕がそのジムの扉を開いたとき、いろんな歯車が回りはじめたんだと思う。まあ、そんな大したことはないんだろうけど、それでも僕の命にまつわる歯車がなにがしかの噛み合わせでギアを変えたのは確かだろう。

幼い頃から体が弱く、気も弱かった僕は大学生になったのを機会にして体を鍛えようと試みた。ジャージを買ってみたり、運動用の靴を買ってみたりしてまずは朝と夜に、それほど長くない距離からランニングをはじめた。

ゼエハアとすぐに上がる息はまるでへなちょこな僕を自嘲するようだ。

ちょうど夏も終わりにさしかかろうという頃、僕は大変気軽な思いつきで走るコースを変えた。いつもは山の方へ足を伸ばしてしんどくなったらくるっと向きを変えて帰ってくるという塩梅で、その日によって頑張る距離も違うというへなちょこぶりだったがその日はなぜか足が街のほうへ向いた。
自転車で30分ほどかかる近くの大きな駅にタッチして帰ってくるというコースを自分で組んだのだ。これは革新的なことだった。が、しんどければ1日でやめるつもりだった。

いつもはそんなところを歩いたりもしないからわからなかったが、
随分と勾配があることに気付いたり、何だか美味しそうな和菓子屋さんがあることにも気付いた。もちろん、走っている時間にはもう閉店していたけど趣きのあるあの店構えはハズレなしだろう。
あまり興味のなかった街のほうへ行くのも案外楽しいものだなあ、と走りはじめた当初に比べると幾らか余裕の出てきた僕はあたりを見渡しながら思った。

しばらくすると大きな川に架かった橋を渡る。

もっと向こうの街並みを黄金色の月が照らしていた。

薄い雲が一つ、まるで美人が羽織る薄手のカーディガンみたいにして月を飾っていた。もうすっかり、夜は秋のものだった。

僕を追い抜いていく車から、流行りのアイドルの曲が排気ガスの匂いに乗せて薫った。僕はそのアイドルに興味がなかった。テレビを見ていればいやでも目にするが同じように着飾ってニコニコとして、同年代ではあるがある意味で人間味がなくて歌っている内容もあまりよくわからない。
だから興味がなかった。

そのまま僕は少しずつ上がらなくなる息を抑えながら
自分のペースを保って走っていた。

ほどなくして駅を中心に据える繁華街が目に入ってきた。この中を突き通って駅にタッチすればそれでやっと折り返すことができる。よく見るとまだまだ真っ盛りの繁華街を走る人の数は多い。みんなイヤホンをしながら自分の世界を走っているんだろうな、と思う。

僕はあまりくることのない大きな駅の周辺を少し走りながら散策することにした。もしかすると楽しそうなお店の一つや二つあるかもしれないと思った。

が、走れども走れども大きな看板はチェーン店の居酒屋か、コンビニかディスカウントショップばかり。中途半端な田舎町はこれが精一杯なんだなあと少し落胆したような気持ちで僕は駅に向かった。

駅にタッチ、と言ってもじゃあどこまでが駅なんだというのがわからない僕は馬鹿正直に階段を登って券売機のところまで行ってその端っこに律儀にピッと手を触れた。

「よし、、、これで帰れるゾッ。。。」

行き道を走りきった達成感で僕は割と人がたくさんいるにも関わらずそれなりに大きな声を出してしまった。

が、僕のことを気にする人は誰もいない。
世の中にはいろんな人がいるし、僕もまた、いろんな人のうちの一人だということだろう。誰も許容しないし拒絶もない。みんなそれぞれ存在していて、交わらない。いつの間にか世界というのはそういうものだということになってしまっている。少しばかりの孤独感をみんな胸に感じているのだろうか。駅や街の明るさに浮かんだ、名前も顔もわからない人々の影を踏みながら、僕は帰り道に足を差し出した。

駅から少し遠ざかると、雑居ビルの街になる。

少し目をあげると来た時には気付かなかったとあるテナントに目が止まった。外からはあまり得体が知れないテナントだが、そのビルで明かりがついているのはその階だけで、開け放たれた窓から女の人の声が聞こえていた。

一瞬、人影がその窓から僕のいる道路を見下ろした。

とても目の大きな綺麗な女の人だった。

彼女は汗をかいていて、スポブラみたいな露出度の高い格好をしていたように思った。僕はその落雷のようなショックを忘れることができないまま、家に帰ってきた。

ビルの４階か５階から一瞬身を乗り出した彼女のあの生き生きとした表情、
この孤独感すら漂う地方都市に爽やかな清涼剤のようなあの表情こそ、
僕が求めていたものだったし、何よりもその整いきった顔は僕の好みだった。

彼女はきっと僕と目が合ったことすら覚えてはいまい。
何かの弾みで窓際に走り寄って、一瞬外を見てすぐに中へ戻っていったのだから。僕は景色の一部だったに違いない。

でも、僕はその一方通行的な認識の差を埋めたいと強く思った。
それが大きな間違いの一つだったとしても、そう強く思った。

翌日、僕はまた彼女の顔が観れるかも知れないと思って駅の方へ足を向けた。朝は駅の方は騒がしいから山道を走り、夜を待つのがこれほど長いと感じた日はなかったほどだ。

昨夜と同じ、橋を渡る直前に大きく窓を開け放した車が一つ、ブロロロとエンジンを蒸して僕の隣を通り過ぎた。なんの偶然か、また排気ガスと一緒にあのアイドルの曲が流れてきた。

「ほら、この空が色づくのは、きっと季節が誰かに恋をしたせいね。」

昨日と同じ一節が聞こえてきて、僕はなぜか胸のどこかがキュッと締め付けられるような気がした。日毎に秋めく夜の真ん中で僕は、自分があの女の子に恋をしたんだと、昨日よりも敏感になった心で勘付いた。

だけど、その夜、あのビルの全ての階の明かりは消えていた。
僕はガクッと気持ちが落ち込むに任せて、そのビルの入り口に足を運んだ。
「サクライビル」と銘打たれたビルには一つしかテナントが入っている様子はなく、郵便受けに名前があるのは「サクライ・ファイティングジム」という4階の一軒だけだった。

「サクライ・ファイティングジム・・・か。。」僕は少しため息に混ぜて独り言を言って、家に向かった。

僕が家に帰ってすることはただ一つ。
一人暮らしの部屋に据え付けられているパソコンに向かって「サクライ・ファイティングジム」の検索をかけることだった。
せっかく大学生にもなって自由な時間もお金も増えたのだから、運動不足解消の大義名分にかまけて入門してやろうと思った。

が、情報がどこにもない。

不思議なことだった。

駅の名前とスペースを同時に入れても該当するウェブサイトはない。
募集もなければ、そもそもそのジムの存在すら誰も知らない様子だった。
僕は汗も拭かないまま、ディスプレイを眺めて呆然とした。

呆然としたままシャワーを浴びて、僕は直接乗り込むことに決めた。