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こんにちは。

 今日は、米の生産調整に従わなかった農家に対する農地の没収が問題となった秋田地判平成4年3月27日(判例タイムズ791号173頁)を紹介したいと思います。

1 どんな事件だったのか

 昭和33年に、国は秋田県にある八郎潟の干拓事業を始めました。入植希望者に対して、農林大臣が定める基本計画に従わない場合には、土地取得後10年以内に、国が負担金相当をもって買収することができるとの売買の予約をつけて農地を配分しました。男澤泰勝は、昭和44年に9ヘクタール、昭和49年に6ヘクタールの農地の配分を受けて米を作っていましたが、その後に米が供給過剰となったことから、基本計画で田畑複合経営とするとされました。入植者の多くが10ヘクタールは稲作が可能だと理解していたことから、農林省構造改善局長通達により、稲作許容面積が8.6ヘクタールとされました。男澤は農林省の是正措置に従わず、9.16ヘクタールで稲作をしていたので、国は売買予約の完結権を行使して、農地の所有権移転登記を求めて提訴しました。

2 秋田地方裁判所の判決

 秋田地方裁判所は、次のような理由で、国の請求を棄却しました。

 売買予約完結権の行使は、配分地の対価である負担金と同額の対価を伴うものではあるが、入植者の生活の基盤である農地を奪うものであること、基本計画に示された方針に従って営農することによる経営上の危険はもっぱら入植者が負うものであること、基本計画の変更ないし具体化がなされた場合にも入植者はこれに従うことが義務付けられているところ、基本計画の変更・具体化は、契約の一方当事者で、予約完結権を有する国によってなされるものであることを考慮すると、基本計画に示された方針に従って営農することに違反した場合には常に予約完結権の行使が許されるとすることは、契約の当事者間の公平という見地からすると妥当ではなく、変更された基本計画ないしそれを具体化したものの内容に十分な合理性があり、その違反が八郎潟中央干拓地における新農村の建設という目的に照らし、悪質、重大なものである場合にのみ許され、これがない場合には予約完結権の行使は権利濫用として無効になると解すべきである。
 前記認定事実を総合すると、大潟村における田畑複合経営をめぐる問題、過剰作付問題は、大規模な水稲(すいとう)単作農業をめざした八郎潟中央干拓地の干拓に伴う入植が、未だ計画全体の半分しか実現しない段階で、米の供給過剰という事態を迎えたことに端を発した問題ととらえることができる。
 すなわち、昭和43年から昭和45年にかけて古米の在庫量は、300万トン、550万トン、700万トンと急激に増加し、食管会計の赤字も急速に拡大する勢いをみせたため、国としては、稲作の生産調整をし、新規開田も中止せざるを得なくなった。
 広大な面積の開田が予定されていた八郎潟中央干拓の開田計画も、その例外とすることはできず、第五次入植を迎える段階で、これを中止することにした。
 しかし、一方で、既に膨大な国費を投じた八郎潟中央干拓地の干拓開田事業を、未だ、干拓地の半分しか入植が進んでおらず、諸施設の整備も完了していない段階で、頓挫させることは、既に入植した者との関係でも、また、納税者である国民全体との関係でも、到底許されることではなかった。
 そのため、国は、いわば苦肉の策として、既に10ヘクタールの水田の配分を受けていた第一次から第四次入植者の水稲(すいとう)作付面積を一戸当たり7.5ヘクタールに減じ、2.5ヘクタールを新規入植者に回し、八郎潟中央干拓地全体の水稲作付面積を変えることなく、153戸の新規入植者を迎え入れる、そして、既入植者には5ヘクタールを追加配分する、新規入植者にも15ヘクタールを配分し、八郎潟中央干拓地を全体として15ヘクタール規模の水稲、畑作一対一の田畑複合経営の農村として完成させるという方針を決定した。
 こうして、原則としておおむね15ヘクタールを家族経営の単位として入植者に個人配分する、営農については大型機械の共同利用等による田畑複合経営とする、稲と畑作物の作付は当分の間おおむね同程度とするという変更基本計画が制定された。
 既入植者は、我国の一般的な農家の水田とは比較にならない大規模な水田を持ち、機械化による合理的な営農をする所得水準、生産性の高い新農村を建設するとの入植者募集に応募して厳しい選考に合格し、これまでの生活を捨てて八郎潟中央干拓地に入植して間もないうえ、八郎潟中央干拓地が、もともと、水田用に干拓されたもので、立地的にも水稲に適し、昭和50年前後でも、畑作の見通しは良くなかったため、奨励金の付かない減反である水稲作付面積の制限には反発していたが、一方で、干拓事業の完成を強く望み、入植が中止されたことにより残った農地を既入植者に配分することを求めていた。
 そこで、大潟村の代表者らは、畑地として5ヘクタールを追加配分することを農林省に要請するなどしていたが、前記のとおり八郎潟中央干拓地の干拓開田計画が頓挫することを危惧していた農林省との間で、2.5ヘクタールの水稲耕作権の返上、5ヘクタールの追加配分、田畑半々の田畑複合経営の合意に達し、既入植者は5ヘクタールの追加配分を受けた。
 しかし、多くの入植者は10ヘクタールの水稲耕作権を維持したままでの追加配分を意図しており、農林省の今後の方針が、田畑半々の田畑複合経営で、追加配分もそれを前提にしてなされるものであることを事業団などの広報誌や新聞報道で知りながらも、変更基本計画の文言が「稲と畑作物の作付は当分の間おおむね同程度とする」という緩いものであったことや、現地での田畑複合経営の説明が入植者の水稲耕作権の返上に対する不満に配慮した不徹底なものであったため、直ちに厳格に実施されることはないとの安易な気持ちで追加配分を受け、既に田畑半々の田畑複合経営に変更されていた基本計画の示す方針に従って営農することを約束する契約を締結した。
 なお、国は、追加配分時において、田畑半々の田畑複合経営ということは入植者に十分周知され、入植者もこれを十分了解していたと主張するが、昭和50年に大半の入植者が10ヘクタール全部について稲作の作付をし、農林省などの指導を受けて青刈りしたという事態が生じたことに照らすと、入植者に対し直ちに田畑半々の田畑複合経営に移行しなければならないとの説明が明確になされ、入植者もこれを納得していたとは到底考えられない。
 大潟村における田畑複合経営をめぐる問題、過剰作付の問題は以上のような経緯で発生したと把握するのが相当である。
 右のような把握を前提としてみると、大潟村における田畑複合経営の方針は、稲作の生産調整と干拓事業の完成という二律背反した要請の下で考え出された苦肉の策で、将来の我国の農業を展望した規模的農村の建設の方針というよりは、生産調整政策の色彩の強いものといえる。
 このことは、前記の通り、昭和52、53年ごろ、畑作専門の入植者が出たのに、国がそれに対し、何等規制をしなかったことからも明らかである。
 大潟村においても何らかの米の生産調整政策を実施することは、米の供給過剰の増大、古米在庫量の激増という全国的な米の需給情勢から考えるとどうしても避けることのできないものであったというほかなく、また、八郎潟中央干拓地の干拓事業の頓挫の危険という事態から、田畑複合経営、水稲の作付制限を構想したことも、一応の合理性を有することといわざるを得ない。
 しかしながら、大潟村における8.6ヘクタールの水稲作付制限は他の地域の減反とは異なり減反に伴う奨励金が交付されないものであったこと、入植者らは田畑複合経営が義務付けられたことの実質的見返りとして、5ヘクタールの追加配分を受けたが、これも水稲作付制限が8.6ヘクタールであるからすべてを畑作地として利用しなければならない土地であるところ、八郎潟中央干拓地はもともと水田用に干拓されたもので、立地的にも稲作以外のものは見通しが良くなく畑作には危険のあった土地であり、一方、食管制度の保障のもとでは米作りが安定した営農形態であったのであるから入植者が8.6ヘクタールを超える6.4ヘクタールについて転作奨励金なしに畑作をすることに不安、不満を感じたことには無理からぬものがあること、国の計画した八郎潟干拓事業の内容からして、少なくとも、第四次までの入植者にとって、田畑複合経営を八郎潟中央干拓地で行うなどまったく予想外であったと考えられること、しかも、入植後わずか数年で水稲単作から田畑複合に基本計画が変更されたこと、昭和50年の過剰作付が国などの強い指導で8.9ヘクタールまで青刈りにより是正され、さらに、変更基本計画の内容を具体化し、水稲の作付上限が8.6ヘクタールであることを明示した昭和51年1月の通達ののちである、同年度以降の営農についても、過剰作付する入植者があとを断たず、特に、昭和53年の営農にあたっては、大潟村村議会の指導で大部分の入植者が12.5ヘクタールの水稲作付を行い、また、昭和58年には、入植者約200名が15ヘクタールの水稲耕作権の確認を求める農事調停を申し立てるなどのことがあり、これらは、畑作に対する不安、米生産の安定性を前提にすると、一概に入植者のわがままと言い切ることができないものであること、国は、昭和60年には、過剰作付を巡る混乱を収めるために、稲作許容面積の上限を10ヘクタールにまで拡大し、更に、昭和62年には田畑複合経営を目的とする営農組織に加わることを条件とはするが、12.5ヘクタールを水田農業確立助成補助金の交付対象とし、平成元年にはこれを15ヘクタールにまで拡大し、更に、平成2年には15ヘクタール全面水田認知を承認し、結局、生産調整に関して、大潟村も他の地域と同様に扱われる形で、大潟村における水稲の作付制限問題は一応の決着をみたことを総合すると、8.6ヘクタールの水稲作付制限にはかなりの無理があり、行政上の指導を越え予約完結権を行使して入植者の生活の基盤である農地を奪うことができるほどの強い合理性のあるものであったというには疑問がある。
 また、田畑複合経営への変更、作付制限は、米の需給事情の変動により国がとった政策であるが、そもそも、水稲単作を前提に、広大な水田を有する新農村の建設を計画し、所得水準と生産性の高い新農村を標榜して入植者を募ったのはまさに国であり、これに対し、男澤氏ら第四次までの入植者は、このような募集に応じて、それまでの生活を捨てて入植し、米作りを中心に1年間の訓練を経て営農に入ったものであることも無視はできない。
 そして、前示のとおり、大潟村における田畑複合経営というのは米の生産調整という色彩が強く、男澤氏の違反も当初の新農村建設という目標に対する背信というよりも、生産調整政策についての違反とみるべきものであり、違反の程度も、昭和60年に変更された水稲作付面積の上限を下回る程度のものである。
 以上を総合すると、国が男澤氏に対してなした売買予約完結権の行使には、やむを得ない事情があるとはいい難く、右完結権の行使は権利の濫用として無効というべきである。
 よって、国の請求をいずれも棄却する。

3 八郎潟から秋田こまちが誕生

 今回のケースで裁判所は、干拓地に入植した農民が国の基本計画に示された稲作許容面積を超えて作付けしたことを理由とする国の売買予約完結権の行使が権利の濫用として無効としました。
 八郎潟からブランド米の秋田こまちが誕生しましたが、当時は、稲を収穫できないように強制的に刈り取る青刈りが国によって実施されていたことも是非知っておいてもらえれば幸いです。
 では、今日はこの辺で、また。

 


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