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信玄公旗掛松事件

こんにちは。

 いきなりタイトルに出てきた「信玄公旗掛松事件」って何て読むの?と思う人も多いでしょう。

 答えは、「しんげんこうはたかけまつじけん」です。

 現在の山梨県JR日野春駅の近くで起きた事件(大判大正8年3月3日民録25輯365頁)で、名前は、あの戦国武将の武田信玄が軍旗を立てた松に由来します。

 法学部の授業で扱われる伝統的な事件なのですが、授業以外の日常生活で見かけたことはありませんね。

 しかし、よくよく事件を検討してみると、法律を武器に国と果敢に戦った1人の男が浮かび上がってきます。国が物資や兵隊を鉄道で輸送することの重要性を認識していた大正時代に、蒸気機関車の煤煙による公害に対してどのように立ち向かったのか。この鉄道をめぐるドラマを知っておくことは、日本の歴史を理解する上で、きっと役に立つ情報だと思いますので、最後までご覧いただけますと幸いです。

1 どんな事件だったのか

 明治38年(1905年)、諏訪地域の製糸家たちにとっての悲願だった中央本線岡谷駅が開業し、町は大きな発展をとげました。絹を運ぶ蒸気機関車の運行は、製糸業に多大な発展をもたらし、明治政府の目指す富国強兵・殖産興業の原動力となっていました。

 今回の事件はこれ以前に起きています。明治35年(1902年)に、国(鉄道院)から韮崎と富士見間に線路が敷かれることが発表されると、甲斐銀行の頭取だった清水倫茂(りんも)は、この計画を見て飛び上がるほど驚きました。というのも、韮崎ー富士見間にある日野春駅のすぐ近くには、清水が所有する信玄公旗掛松(甲斐の一本松とも呼ばれました)があったからです。

 すぐさま清水は「線路の位置を松の木から離れた場所に変更してもらえないか」と上申書を提出したが却下され、日野春駅開業後も「衰弱した老松を何とか守って頂けないだろうか」、「実際に現地へ御足労願い、枯死の危機に瀕する老松を直接御覧頂けないだろうか」と鉄道院総裁の原敬に申し入れたが聞き入れてもらえませんでした。

 すると大正3年(1914年)に、信玄公旗掛松は、日野春駅の構内を行き来する蒸気機関車の煤煙によって枯れてしまいました。そこで、清水倫茂は国(鉄道院総裁は後藤新平)を相手に、1500円の損害賠償請求をしたのです。

2 清水倫茂の主張

 国は、煤煙による被害を予防する措置をとっておらず、その結果、由緒ある松が枯れてしまったじゃないか。国には過失があるので、不法行為上の損害賠償責任を負うべきである。

3 国(鉄道院)の主張 

 蒸気機関車を運転するために石炭を使用し、その結果として、煤煙が噴出されるが、それはあくまで営業権の行使の結果であり、この行為自体が不法行為であるはずがない。また、老松が枯れたのも、煤煙や振動による被害ではなく、自然の作用である。よって国には賠償する責任はない。

4 大審院の判決

 鉄道院が煤煙予防の方法を施さずに煙害の生ずるに任せて、その松樹を枯死させたことはその営業としての汽車運転の結果であるとはいえ、社会観念上一般に認容すべきものと認められる範囲を超越したものというべきで、権利行使に関する適当な方法を行うものではないと解するを相当とする。よって、鉄道院が清水倫茂の松樹に煙害を被らせたことは権利行使の範囲にないと判断し、過失によりこれをなしたことをもって不法行為が成立する。

5 国益優先が否定された事件

 今回紹介した大審院判決については、判決の言い渡し日が再三にわたって延期されていたことから、簡単に結論を出すことができず、ギリギリまで検討されていたことがうかがえます。

 また今回の大審院判決は中間判決であり、その後の裁判で、事件の中心となっていた信玄公旗掛松は、鑑定により樹齢が160年で信玄公時代のものではないとされたことなどから、損害賠償額が72円60銭と大幅に減額されています。

 それでも、当時は「国は悪をなさず」、絹で儲けて国を強くするという考え方が重視されていたことに対して、大きな転機となる画期的な判決だったと評価されています。同じ時期に、富山の米騒動、川崎造船所(兵庫工場)での大規模ストライキなどもあり、裁判所も「国の利益よりも、人々の権利を尊重する」という態度を示さざるを得なかったのではないかと考えられますね。

では、今日はこの辺で、また。


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