SIDE A: 余は如何にして『沖縄の生活史』の聞き手となりし乎
5月12日、みすず書房から『沖縄の生活史』が刊行されました。
これは復帰50周年を記念して、2022年、沖縄タイムスで連載された企画を1冊にまとめたもの。
主に沖縄で生まれ育った方々、100名の語りが掲載されています。
監修者は、沖縄国際大学名誉教授・石原昌家先生と、京都大学教授・岸政彦先生。
編者は沖縄タイムス社。
岸先生が監修した『東京の生活史』(筑摩書房、2021年)と同様のコンセプトに基づいたプロジェクトで、ちなみに来年は『大阪の生活史』が出るそう。
詳細は『沖縄の生活史』特設サイトをご覧ください。
この本には、わたくし大城も聞き手として参加しておりまして、語り手である母親のオーラルヒストリーが載っています。
参加しようと思った理由はふたつ。
ひとつは、単純に母親の半生を聞いておこうという、きわめて個人的な興味。
ふだんの会話の中で、断片的に聞いてきた事柄をあらためてたどりたい、点と点を結んで一本の線として認識したい、という気持ちがありました。
もうひとつは、戦後の沖縄で「女性」がどんなふうに生きてきたか、その小さなサンプルを提示してみたかった。そういう、いくらか社会的な関心。
沖縄の場合、戦後史の語りの中で、農業や漁業に従事するとか、自分で商売をはじめるとか、そういう話はまあまあ見聞きするのですが、いわゆる「勤め人」の生態はよくわからない。
さらにこれが「女性」の話となると……。
これは想像ですが、1950年代から1970年代にかけて、「女性」が雇用条件や福利厚生などがきちんとしたどこかの「組織」で「働く」というのは、たとえば「公務員」になるか、「教員」になるか、「看護婦」になるか、といった選択肢くらいしかなかったんじゃないかしら。
男女雇用機会均等法の施行は1986年(たしかこれを機に「看護婦」という言い方は「看護師」に変わったはず)。
それ以前の「女性が働く場所」って、けっこう制限されていたように思うのです。
ことに経済発展が遅れに遅れていた沖縄では。
などと書いていたら、2023年6月21日、世界経済フォーラムが「男女格差報告」を発表。
日本は調査対象となった146か国中125位というていたらく。
ちなみに、お隣の韓国は105位、中国は107位。
東アジア・太平洋地域では最下位。
また、先進7か国(G7)中でも最下位で、79位のイタリアに大きく引き離されています。
うーむ、困ったものですね。
話をもどしましょう。
母は高校卒業後、銀行勤めを経て、結婚を機にいったんは主婦となり、しかしここでは書けない理由から、ふたたび働かざるをえない状況となり、生命保険会社に入社、子育てをしながら定年まで勤め上げました。
こうした来歴は、母個人のライフヒストリーでしかないのだけれども、ただ、もうすこし視点を広げると、1970年代から1980年代にかけて、女性が生活の糧を得るために働く職種のひとつとして、「保険会社」という道もあったんじゃないのかなということを、なんとなく感じていたのです。
そう、「保険のおばちゃん」として、がんばってお金を稼ぐということです(今はおそらく「おばちゃん」がNGで、「生保レディ」と呼ぶようですが)。
沖縄タイムスの紙面で募集が出たのは2021年の暮れ。
これこれこういうプロジェクトがあってと母に企画書を見せたところ、意図がよくわからない様子。
「そんなの聞いてどうするわけ? ありきたりな話なのに?」
当事者のいう「ありきたりな話」というのは、じつは全然ありきたりではないというのが、『東京の生活史』や『沖縄の生活史』最大の教えです。
岸先生によるオンライン研修を数回受けた後、2022年3月5日に第1回目、12日に2回目の聞き取りを実施。
母は高齢なので、おしゃべりで疲れさせてもなあ、と思い、それぞれ60分程度を予定していたのですが、いやはや、しゃべることしゃべること。
こちらから質問を投げかけることはほぼなく、どちらもノンストップで90分くらいの語りとなり、聞き取りデータは合計3時間強となりました。
1回目の内容は、幼少期から中学校あたりまで。
この時期は大半が沖縄戦の記憶で、凄惨きわまる体験談が続きました。
2回目の内容は、高校以降、職業婦人として働いていた時期の話。
この部分の語りが『沖縄の生活史』に収められています。
書き起こしには苦労しました。
ほぼ毎日作業して、1か月ほどかかりました。
その後、母に目を通してもらい、修正したり削除したりの繰り返し。
結果、原稿の段階で第10稿(!)くらいまで作成することに。
語りの中では、ひとつ、とても重要な出来事があったものの、その部分にかんしては、母から早々に削除を命じられました。
起承転結のある「ストーリー」なら絶対に外せないおいしいネタ(!)でしたが、語りというものは「ナラティブ」なんですよね。
断片的なあれやこれやが淡々と、ときには脈絡なく記述されるだけ。
テキストの肌理としては、どっちかというと小説に近いものがあるように思います。
もちろん、インタビューとフィクションとでは構造が異なりますけど。
母の確認が終わったら、沖縄タイムスの編集委員であり、企画を立ち上げたFさんに送稿。
客観的な視点で読んでもらい、細かな部分を再確認。
新聞社の企画なので、事実確認の手順がきちんとしており、その点は大いに助かりました。
ファクトチェックにおいては「歴史的な事実関係」のみに目を向け、「記憶の中の真実」、つまり思い違いや記憶違いについては、むやみに修正しないよう心がけたつもり。
ここもけっこう重要なポイントです。
こうした経緯を経て、母の語りは、2022年6月27日と28日、無事、沖縄タイムス紙上に掲載されました。
研修会で岸先生がなんどもくりかえし言っていたのが
「積極的に受動的になってください」
ということ。
わたしは商用文のライターとして25年ほど仕事を続けてきたので、このことばの意味するところはただちに理解できましたし、同時にその難しさも想像できたのですが、反面、職業人の惰性というか思い上がりというか、「まあなんとかなるでしょう」と高をくくっていた面もありました。
もちろん、なんとかなったはなったのですが、母への聞き取り、ライター人生でいちばん大変でした。
なにが大変だったのかというと、文章のスタイル、すなわち「文体」です。
文字起こしをしたことのあるかたならおわかりでしょうが、通常の「対話」をそのまま書き起こせば、誰もが読める「文章」になるわけではありません。
10人中8人に伝わるような「わかりやすい文章」としてまとめるためには、「編集」したり「構成」したり、ときには「補足」や「意訳」したりしないといけない。
しかし『東京の生活史』がそうだったように、『沖縄の生活史』も、語り手の語りをそのまま記す、という基本方針がある。
ということは、わたしがライター人生で養ってきた技術は、ほぼ封印しなければならない。
とはいえ、それは織り込み済みの話でしたから、たいした問題ではなく、ライター業をなりわいとする人間としては、むしろ「編集しない文章」のおもしろさに強く惹かれていたわけです。
母の語りがマイルス・デイヴィスの演奏なら、わたしの調整はテオ・マセロの編集みたいなものだよな。
なんてことを思いつつ。
あとから考えるに、テオ・マセロは過剰とも思えるエディットを施していたわけだから、このたとえは全然よろしくないのだけれども、まあ、聞き手の意識としてはそういう感じだった。
じゃあ問題は何だったのか。
要は、語り手である母としては「きれいにまとめてほしい」わけです。
新聞に載る、本に収められる、ということは、「きちんとした文章」であることが前提で、この心情はよくわかります。
聞き手のわたしは『沖縄の生活史』の意図も意義もじゅうぶん理解しているけど、主役である語り手の母は、いまひとつ納得できていない。
「はっさ、なんであんたはプロのライターなのに、もっとちゃんとまとめるんじゃないの?」
いやいやいや。
そのあたりの説得には、いくぶん時間がかかりましたねえ。
ただし、第1回目の語りが沖縄タイムスに掲載された後、「ああ、そういうことか」と母なりに得心したみたいで、その後、連載も興味深く読んでいたようです。
『沖縄の生活史』は、刊行から2週間ほどで重版が決まったようです。
県内のみならず、県外での評判も上々のようで、喜ばしいかぎり。
このさきは、他府県も沖縄タイムス方式にならって、おなじことをやるといいんじゃないかしら。
地元メディアが音頭をとり、たとえば『北海道の生活史』とか『新潟の生活史』とか『福岡の生活史』とか、そういう記録を残していく。
あっちでもこっちでも、ぽつぽつそういう本が出ると、楽しいじゃないですか。
そう考えると、生活史という方法論は、プラットフォームとしてよくできていて、なんというか、いまどきな感じがします。
そのあたりが、広く注目を集める要因となっているのかもしれません。 (O)