SIDE B: 余は如何にして『沖縄の生活史』の読み手となりし乎
『沖縄の生活史』で、わたしは母の聞き手を務めたのだけれど、その語りを含め、いくつものライフヒストリーが本としてまとまった瞬間、わたしは責任重大な聞き手から、無責任きわまる読み手へ早変わりしたのだった。
むかし『寝る前五分のモンテーニュ』という本があって、それにならっていうなら、寝る前五分の生活史、という感じですかね。
こういう本は、気が向いたときに一編ずつ、気軽に読めばいい。
わたしは『東京の生活史』もそんな姿勢で接したし、いずれ『大阪の生活史』でもおなじ読みかたをすると思う。
『沖縄の生活史』も、どこからどんなふうに読んだってかまわない本で、本のありかたとしては、『聖書』や『論語』に近いのではないかしらん。
だからといって、そこから教訓めいたものを受けとる必要など、まったくないですけど。
わたしの場合「これはおもしろい」と思ったものは、そのまま読み進めるけれど、「うーん、いまいちぴんとこない」ものは途中でやめる。
「そんな無責任な!」と生真面目な方は思うかもしれない。
でもねえ、赤の他人の人生なんだから、そんなマジメにつきあわなくたっていいじゃない。
読みかたも「一期一会」で、べつにいいと思う。
それに、わたしが「いまいち」と思った語りが、べつの読者にとっては「おもしろい」になるかもしれないし、わたしにしたって、「ぴんとこない」と思った語りが、数年後、「これ最高やん!」に変わるかもしれないし。
だいたい、本ってそういうものでしょう?
読まなかったとしても、「なんかそこに〝見知らぬだれかの人生〟が転がっているな」と意識するだけでじゅうぶん、といいますか(ほんとうは〝無意識する〟という妙な言いかたをしたい)。
積ん読とおなじように、他人様の人生が「そこに在る」こと、そしてその在ることが、「つねに」ではなく「ときどき」感知されること、そこが大事なのだとわたしは思います。
というのが前提で、そのうえで『東京の生活史』を横目で見つつ、『沖縄の生活史』の印象を記すと、前者は「個人」が全面に出ていて、後者は「歴史」が露呈している。
露呈しまくっている!
もちろん、これは乱暴な二分法で、仮に生活史の教えがあるとして、それとは正反対の捉えかたであることは、重々承知しています。
『東京の生活史』でも歴史の翳りが感じられたり、『沖縄の生活史』でも個人の顔が見えてきたり、というのは、当然、あるにはあるんだけど、ただ、大まかな傾向として、「個人が群れ集う東京」と「歴史の軛に絡めとられた沖縄」というくらいの違いはあるんじゃないかな。
そして、個人と歴史のあいだで、浮かんだり消えたりするのが「社会」や「生活」というもので、この一連の企画が「社会学者」である岸政彦先生監修の下で進められ、これらの聞きとりが「生活史」と呼ばれているのは、つまり、そういうことなのだと、わたしは理解しています。(えっ、どういうこと?)
ちなみに『沖縄の生活史』が「歴史の軛に絡めとられた沖縄」に見えたのは、これが復帰50周年の企画として進められたことと関係しているはず。
『沖縄の生活史』の編者は、地元紙の沖縄タイムス。
1972年の本土復帰、沖縄返還について、市井の人々に何かしら思うところを語ってもらいたいと、そういう企図があったように思います。
となると、語り手の選定というのが、どうしても、ある年齢層以上の人々に偏ってしまうわけで、その結果、歴史性を帯びてしまうのは必然……。
念のため断っておきますが、偏りがあるからダメ、という話ではなく、はじめからそんな企画だった、ということです。
あ、そうそう、逆に「戦争も復帰も知らない世代を中心に、私たちが見てきた沖縄のこと」を記す「あなたの沖縄|コラムプロジェクト」という、若い世代による試みもあり、これはこれで、またべつの偏りがあるわけですが、だからこそおもしろいのだと、わたしは声を大にして言いたい。
『沖縄の生活史』と並行して読みたいコラム集です。
なお、このプロジェクトを主宰する西由良さん、なんと新城和博さんのお子さんだそう。
新城さんはわたしが尊敬する沖縄の編集者で、蛙の子は蛙ということわざがありますが、親子二代、それぞれ「沖縄」をもみほぐすようなアプローチをしているのがおもしろい。
ところで『東京の生活史』にしても『沖縄の生活史』にしても、どちらも散文的な世界が広がっていて、そのぶん「小説のように」読めたりもするのですが(なにしろ「事実は小説よりも奇なり」と言うではありませんか)、とくに『沖縄の生活史』の場合、歴史が露呈しているだけに、ここで語られているオキナワは、総体として、ガルシア=マルケス描くところのマコンドみたいになっちゃってるんですよね。
政治的緊張にふちどられた魔術的現実の世界。
無関係で断片的な挿話、無意味で魅力的な細部が、ひたすら散らばっているだけなのに──いや、散らばっているだけだからこそ、作為的なストーリーテリングでは、とうてい描きえない風景が立ちあがっているというか。
断片の集積がもたらす、思いもよらない効果に、ちょっとビビってしまった。
同時に、そこで語っているのは生者であっても、その背後に、必ずといっていいほど、死者たちの声なき声が潜んでいることも、小説のような空間をかたちづくる要因になっていて、その意味で、カバーに上原沙也加さんの写真があしらわれているのは、とても象徴的だと思う。
彼女の写真もまた、そこにかつて存在していたであろう人々の息づかいが、風景のなかに溶けこんでいるから。
『東京の生活史』も、散文的だなあとは感じたものの、どちらかというと「短篇小説の味わい」みたいな慎ましいレベルにとどまっていたのが、『沖縄の生活史』になると、ガルシア=マルケスばりの荒々しい長篇小説じみたものに化けてしまったわけで、こういうところにも、土地柄が出るのですねえ。
さて、この12月には『大阪の生活史』が出版されました。
阪神タイガースが38年ぶりに優勝した2023年、『大阪の生活史』をすべりこみセーフで刊行したところに、版元の心意気を感じます。
いや、これはたまたま偶然が重なっただけなのかもしれません。
ただ、偶然の連続(と不連続)が生活をかたちづくっているわけだから、このめぐりあわせは、じつに生活史にふさわしい展開と言えましょう。
わたしは沖縄で生まれ育った後、長い間、東京で暮らし、それゆえ、わたしのなかでは沖縄と東京の二軸がありました。
あちらこちら、いろんな土地を訪ねても、わたしはいつだって気ままなパッセンジャーでしかなく、「この街いいなあ、住みたいなあ」などと思ったことは、ほとんどありません。
唯一の例外が大阪。
あるとき「ここで暮らしたら楽しそう」と思ったんですよね。
なぜそう感じたのか、いまとなっては、わからないのですが。
だから、まあ、これも後付けというか、ただの偶然でしかないとはいえ、『東京の生活史』『沖縄の生活史』『大阪の生活史』、この三冊は、わたしにとって〝三都物語〟なのですよ。
ただ、沖縄や東京とは異なり、大阪で生活したことはなく、その点は、『東京の生活史』や『沖縄の生活史』を読むときとは、違う構えになる気がします。
阪神優勝の勢いに押され、「これは2023年中に買わないと!」と早々に書店で手に入れたものの、たぶん、読み始めるのは来年の2月以降になりそう。
もちろん、積ん読でいいんです。
なんなら、5年後、10年後に読んでもいいし、むしろ、そのくらい時間的な距離を挟んだほうが、意味をもつのかもしれない。
だって、生活史というのは、読者を待っていてくれるものだから。 (O)
追記:
ファッション誌「SPUR」のウェブサイトで、岸政彦先生へのインタビューが公開されていました。
『沖縄の生活史』刊行時におこなわれたものらしく、岸先生の沖縄への向きあいかた、関わりかた含め、沖縄について、きちんと掘り下げた内容になっています。