名前と所有の話

算数セットに名前をつけた。

印刷済みの名前シールも一緒に注文していたので、大半は貼るだけだったのだけれど。足りない分は書いて貼った。他のものにもいろいろ名前を書いた。

この日息子の名前を書いた回数は、世界中で私が一番多かったと思う。おそらく息子と同姓同名で小1になる子はほぼいないだろうし。

ふと思い出したのはオムツ時代。仕事の繁忙期前、保育園に持っていくオムツ2ヶ月分くらいにまとめて名前を書いた時があった。あの時も「私は今日、世界で一番この名前を書いている」と思っていた。名前地獄再びである。

今回は、全部合わせて約3時間かかった。いや、名前つけるだけで3時間てどうなのよ。

内訳は、算数セット→2時間、その他→1時間というところだろうか。


名前をつけながらぶちぶち考えた。何で名前をつけるのかって、「その人のもの」だとわかるようにするためである。つまり、その人のものという思考、この世に「所有する」という概念がなければ、この名前もつけなくていいのではなかろうか。これはみんなのもので、必要な時に必要な人が使ったらいいよ、的な(まぁ「みんなのもの」な時点で所有の概念入ってるけど)。

小学校の勉強内容は覚えていないので算数セットをどう使っていたか覚えていないけれど。そんな1本1本、名前を書いて自分のものだという主張をしまくらなければならないほど必要で大事なものなのだろうか。

もちろん、「僕のが1本無くなったー」とか「これ誰のかわからないー」とか、そういうトラブルを防止するための名前というのはわかる。

けど、要は必要な時に必要な数が行き渡ればいいわけで、それを個人で所有して時間をかけて名前を書くほどの意味があるのかと言われると。うーん?と思ってしまう。ものが「算数セット」という、正直それ使わなくてもどうにかなるのでは…?というものだから尚更。

場所によったら学校貸出だったりするそうだし、その辺、少しずつ変わってきているのかもだけど。名前をつけながらこれ必要なのかな?どうにかならんかな?と思ったのだった。


そもそも名前って何なんだろうなぁ。名前を書いて「私のものです」「私がやりました」そう主張する場面って日常で沢山あるのだけれど。

そのうちどれだけが、本当に必要なことなのだろう。

自分がいて、相手がいて。自分は名前がなくても「自分」ってわかるから自分に対しては特に名前はいらない。相手が自分を認識するために名前はある。

おそらくだけど。今の世の中、必要以上に「相手に認識させる」「相手に認識してもらう」ことをしている気はする。本当は日々こんなに名前を書いて「自分」を主張しなくてもいいのだ。たぶんその方が労力もかからないし生きていて楽だと思う。

でも名前をつけて「個人」を作って。その個人が他人と比べてどうなのか、「この人がこれをした」「この人はこれを持っている」、そういう思考に持っていきたいのかな、という気はする。

本当はそんなことしなくても、世界は回るし生きていけると思うのだけどね。



思いつくまま書いていたら、たぶん人が読んでもよくわからない内容になってしまった。

でも個人的には「名前」や「所有」というものについて今までと違う考え方ができた気がする。

そう考えると、名前をつけ続けたことにも意味があったのかなぁ。



ではまた明日。