実家のある集落

幼馴染の祖母が亡くなったのだと、連絡があった。連絡は私の母からあったのだけれど、そのメールの最後に一言。

○○(集落名)も寂しくなるわ。

と書かれていた。

ここで言う集落は、集会所単位というか、20軒くらいの家の集まりと思ってもらえればいいと思う。過疎化、高齢化が進む私の実家が所属する集落。これからどうなっていくんだろうと。考えたところでどうにもならないのだけれど、誰かが亡くなると聞く度に考えてしまうな。

私が小学生の頃には、同い年の子も上の子も下の子も、それなりにいた我が集落。しかし私のいくつ下だったか、その子が最後の小学生で。去年、子どもが生まれた家があるのだけれど、集落で見れば実に30年ぶり?くらいの子どもの誕生だったのである。

少子高齢化と言うけれども、少子どころじゃないのが、こういう集落の現状なのだと思う。

私と同年代の人々の中には、私や妹たち含め、子どもがいる人も当然いる。のだけれど、皆、大抵県内のちょっと町の方に住んでいて、たまに子どもを連れて帰ってくるくらいである。

住んでいる人の人口を本当にざっくり考えてみると。70歳以上が一番多くて、60代がうちの親含めて数人、私と同年代の30代〜40代が5人くらい、あと、この前生まれた子が1人。という構成になるのではないだろうか。

親世代がいなくなってしまった後、私世代の人々は果たしてあの地で生活できるのか。できたとしても、今ほど快適に暮らせないのは間違いない。山の方は草刈りやら何やら、人手が必要なことが多く。それをしなくなってしまったら道も通れなくなるわけである。

私が子どもの頃は一人暮らしをしていたけれども、一人で暮らせなくなったり、亡くなったりして空き家になった家もいくつかある。山に近い家だと山と一体化してしまって、ぱっと外から見てそこに家があったことなんてわからなくなってしまうのだ。そんな家が、これからもっと増えるのかもしれない。

うちの山には古墳があって。古墳があるということは、大昔にその辺に住んでいた人がいたということだ。そこに住んでいたということは、何かしら住みやすい要素があったはずで、当時の人々にとってそこは「住める」土地だった。けれど、あと50年くらいしたら、もしかしたら誰も住まない土地になるのかもしれない。その時、その時で住みやすい場所、必要とされる場所って違うのだろうけど。今まで続いてきたのだろうことが「終わってしまう時」を考えると、寂しいものがあるなぁ。

と、今日はいつも以上に思いついたことをつらつら書いているので、まとまりが無いのだけれど。とにかく実家の集落に関することを何か書かなきゃなぁという気になったので、書いておいた。

いずれそこで住んだ記憶を持つ人がほとんどいなくなってしまうだろう場所。だから何かに残しておきたいと思ったのかもしれない。

今度実家の辺りに行ったら、たくさん写真を撮ろうかな。せめて今の風景を何かに残しておきたいのである。


ではまた明日。