空 第22話
〈 大菊 〉
良子は帰り道を急いでいた。季節はすっかり秋になり、日も短くなった。暗くなる前に帰り道の途中にあるお墓の前を通り過ぎたい私は、急いでお家へ向かっていた。
最近は秀夫のことを想像する日が少なくなった。学校の飼育小屋にいるうさぎの世話が忙しくなったからだ。春と秋にウサギが出産する事が多く、兎小屋の掃除をしたり、他のうさぎに生まれたばかりの赤ちゃんうさぎを傷つけられないように個室を作ったり、お母さんから要らない毛布をもらってウサギの個室に敷くものを作ったりと何かと用事が多くなった。生まれてくる小さなうさぎを毎日想像して、頭の中はそれでいっぱいだった。
去年までは、このお世話の様子を小屋の外から眺めているだけだったが、今年は4年生になったので、小屋の中に入ってお世話できるようになった。
先生は来週あたりに赤ちゃんんうさぎが生まれそうだと言っていた。待ち遠しくて仕方がない。急に毎日暗くなるまで帰って来なくなった私をお母さんはとても心配していた。最初の何日かは、どうして早く帰って来られないのかと叱られたが、最近はもう何も言われなくなった。めでたしめでたし。
家の角を入ると、玄関までの道の両側に黄色と紫の小さな菊が満開になっていた。この菊はとて美味しい。昨日、祖母からこの菊を摘むのを手伝ってと言われていたのを思い出した。それなのに帰宅が遅くなって今日は叱られるかもしれないと思いながらお家に向かって歩いていると、妹をおんぶして散歩から帰ってきた祖父が家の後ろの森の方から歩いてくるのが見えて、私は駆けだした。
祖父は縁側に腰を下ろすと、妹は祖父の背中からするりと降りて
「おじいちゃん、ありがとう。」
と言って、台所のお母さんの方へ走っていった。
この祖父の毎日のお散歩には、私も5歳くらいまでは連れていってもらっていた。今は妹の番になっていた。
祖父はそのまま縁側に座ったまま動かず、目の前の鉢に植えてある、品評会に出す菊の大輪を眺め始めた。
何となく玄関から上がりにくい私は、仏壇のある座敷の縁側から家に入ることにした。
「ただいま。」
隣の座敷の縁側に座る祖父に言うと、祖父はコクリと頷いた。
縁側の戸を開けて、家に上がると、ほぼ逆立ち状態になりながら脱いだ靴を拾い上げた。そして、戸を閉めようとした時、いつも無口な祖父が言った。
「良子、この菊の中でどれがいい。」
祖父は今、相当迷っているようだ。こんな事を誰かに質問しているのを聞いたことがない。そもそも、祖父が話すということ自体が珍しい。
私は戸を閉めると、隣の座敷の縁側の祖父の隣に靴を抱えたまま座った。
祖父の前には3鉢の中にそれぞれ鉢ごとに種類の違う三輪の菊の大輪が咲いていた。
私もしばらく、目の前の三鉢の菊を眺めた。
「どれが良いかなんて分からないよ。みんな違う人みたいだもん。」
「人?どんな人なんだ?」
「えーとね、この一番右の鉢の菊は、とても大きくて、輝くような強い黄色で、花びらがどれも太くて厚くて強そうだね。力士のように見えるね。」
「そうか。では隣はどうだ?」
「そうね、真ん中の鉢の菊も大きくて、黄色も綺麗。一つ一つの花びらが細くて長くて、輪台がなかったらお人形の長い髪の毛みたいになっちゃいそうで面白い。でも、こんな風にしっかり輪台の上に広がって咲いていると、とてもツバの大きい麦わら帽子をかぶっている人に見える。かっこいいと思う。」
「ははは。輪台無かったら人形か。無様だな。そうか。麦わら帽子の人か。で、もう一つは?」
「えーとね、左の鉢の、花びらが細くて長くて、白に近いような薄紫の大きな菊は、とっても強い人に見える。」
「強い人?どうして。」
「えーとね、あのね、夏休みに入院していた時にお友達になったお兄ちゃんかとても痩せていてとても白かった。オセロが強かったの。あっ、でもその強さじゃなくてね、何というか。。。お兄ちゃんは学校へ殆ど行ったことがないのに、学校の話する私に優しかった。お兄ちゃんと同じ病気の子が亡くなった日も、みんなに優しかった。強い人だなと。」
「そうか。」
祖父は急に立ち上がって左の鉢をよくよく眺め始めた。
白くて細い、長い花びらをよく見てみると、一枚一枚に紫のとても細い筋が通り、上から見でも横から見ても立体感を際立たせていた。
「そうだな。強いな。」
屋根の上の方からカラスが鳴いた。遠くでも違うカラスが一鳴きした。
雲ひとつない秋晴れの空に、椋鳥の群れが飛び去っていった。
西の空だけ少し明るいだけで、辺りは夜になりかけていた。
私は少し寒くなって、中に入ろうと立ち上がると、
「決まった。今年はこれにしようか。強い人に。ありがとう。」
と祖父が、背中を向けたまま言った。
「お役に立てたならよかった。」
そう言うと、私は仏壇の前で一瞬、おばあちゃんに叱られませんようにとお願いしてから、靴を戻すために玄関へ向かった。