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非合理な特殊解 16

夏子はこの日、1時間の残業をした。
エレベーターを降りると、朝の光が眩しかった。目の前を黒いランドセルを背負う子供達が通って行った。

不思議な胸の高鳴りはまだ収まっていなかった。すれ違う子供達が夏子の顔を覗き込んで行くように感じた。よほど浮き足立っているようだ。夏子は苦笑いをしながら構わずそのまま渋谷駅に入って行った。

夏子はエマの家の近くまで来たが、すぐに帰る気にはなれなかった。どこか木陰のようなところに座ってもう少しだけ心を静めてから帰りたいと思った。

昨日も来た駒沢公園だったが、今日はまた違って見えた。時間帯が違うからかもしれないが、全てがどこか明るく見えた。

夏子はまだ夢見心地まま、公園内の人通りの無い通路を探した。そしてその通りから見える人影のない木陰を探した。公園の中を20分ほど歩き続けていると、人影のない芝生の生えた木陰を見つけた。

夏子は両腕を頭に敷いて、その木陰に静かに寝転んだ。遠くから人の気配はするが、近くには誰もいないようだった。
「鈴木恵一、どんな人なんだろう。」
夏子は風で揺れるこの葉を眺めながら呟いた。
目を瞑ると木々のざわめきが心を静めてくれるような気がした。

夏子はそのざわめきに聞き入っていた。暫くすると、少しずつゆっくり近づいてくる擦れた音に気がついた。が、その不規則性からそれを生き物の気配だとは思わなかった。
それが足音だと気が付き、夏子が目を開けた時には、ナイフを握った西田が夏子の目の前2、3メートルに迫っていた。

夏子はまっすぐにエマの家に帰らずよかったと思った。咄嗟に木の裏に逃げたが、意外と西田の動きがは素早く、あっという間に間合いを詰められてしまった。
「殺したくなるほどだったの?許さないって。」
西田の顔とナイフの先端を交互に見ながら夏子が言った。
「分からない。殺したいというか。いや、殺したくない。したい。させて。」
西田は少し興奮しているようだった。そしてとても今この瞬間を愉しんでいるように見えた。
「はい?どういう事?」
夏子はここで殺されたくなかった。解決方法を必死で考えた。
「給料入ったら払ってもいい。だから、させて。」
西田はお金を出せば当然してもらえるものだと思っているらしかった。
「落ち着こう。ナイフが怖い。」
夏子はとりあえず人が通りそうなところへ動けないか考えた。
「ここで?」
「無理?」
「うん。無理じゃない?ナイフ捨てるなら、家来る?」
「あ、うん。」
夏子は、西田がある意味とても素直なことに驚いた。
「じゃあ。向こうへ投げて。」
夏子がそう言うと、西田がナイフを畳み、遠くへ投げた。それを見届けると、夏子はエマの家から離れる方向へ歩き出した。すると、西田は夏子の少し後ろをピッタリと歩いた。
夏子は歩きながら、人通りのある路地に入ったら全速力で逃げようと考えた。あと50メートルほど先に右や左へ行き交う人が見えた。もう少しだと思ったその時、西田が夏子の着ているパーカーの背中の辺りを掴んだ。
「僕、もう一本持ってるんだ。逃げないでね。」
驚いて夏子が振り向くと、夏子の服を掴んでいない方の手には、先ほどのよりも長く鋭いナイフが握られていた。

ナイフは怖いが、服を握られている感触から、西田の握力がとても弱いことが分かった。手首も細かった。

夏子は頷いてから、人通りのある路地へ入った。そして入ってすぐに逃げようとする素振りをした。案の定、西田は怒りの表情で襲ってきた。夏子は両手で西田の両手首を握り、ナイフの動きを止めた。西田は夏子の腕力が意外にも強く、この予想外の展開に焦りだした。すぐに二人は揉み合いになった。

近くを歩いていた人が
「ナイフで男が人を襲ってる!」
と声を上げた。その声に引き寄せられて、沢山の人が集まってきた。
「警察!警察!」
数人がスマホを取り出していた。
西田はいつもの抜け殻のような無表情になっていた。

「あの、違うんです!この子、まだ17歳なんです。手首切って死にたいというから、止めてたんです!警察呼ばなくていいです。」
夏子が叫んだ。
「え、本当?」
高校生の女の子が言った。
「紛らわしいよ。てっきり襲われてると思ったよ。」
スーツ姿の男性が言った。
「ナイフなんか持ち歩くなよ。」
ランニング中の男性が言った。
「馬鹿野郎、死ぬなんか考えんじゃねぇよ子供のくせに。」
杖をついたお爺さんが言った。
色々な人が色々な言葉を吐き捨てて去って行った。

しかし、何人かはすぐに去ろうとしなかった。
「どうしたの?話してみて。」
チワワと散歩中のお婆さんが言った。
「お兄ちゃん、死なないで。」
「頑張ってね。」
幼稚園の制服を着た男の子とそのお父さんが言った。
「オレもそういう時もあったけど、生きててよかったと今は思ってるよ。」
 散歩中の男性が言った。
「生きてれば、いいことあるから。」
ランニング中の女性が言った。
「泣かないで。」
5歳くらいの男の子が言った。
いつの間にか西田は座り込んで静かに泣いていた。

「ナイフちょうだい。」
夏子が手を差し出すと、西田は握っていたナイフを夏子の手に乗せた。そして上着の内ポケットからもう一本のナイフを取り出し、夏子の手の上のナイフの横に乗せた。

「ほらほら、みんな、あなたを心配してる。」
夏子がそう言うと、西田は顔を上げて周りの人を見回した。そして西田は顔を伏せて泣き出した。

緊迫した状況は脱したようだ。夏子は泣いている西田を眺めながらそう思った。
「皆さん、ありがとうございました。もう少し落ち着いたらこの子のお家まで私が送りますのでご安心ください。助けてくださってありがとうございました。」
夏子は周りの方々へお礼をし、西田の方をトントンと叩いた。西田は少し頭を下げた。

徐々に人だかりも消え、普通の日常の光景になった。通路の真ん中で泣いている人も中々目立つ。その隣にいるのも夏子には辛くなってきた。夏子は西田の手を引いて通路の側のベンチへ座った。
「許さない。」
夏子に繋がれていない方の腕で顔を覆いながら西田が言った。
「いい加減にしなよ。」
夏子はため息混じりに答えた。
「警察へ突き出されたって僕はよかったんだよ。」
西田は意味のわからない強がりを言い放った。
「はい?じゃ、今から行こうか?」
夏子はその意味のわからない強がりに乗ってみた。すると西田は黙り込んだ。

しばらく沈黙が流れた。

やっと西田が落ち着いて来ると、夏子は西田を送り届けようと考えた。
「家はどこ?」
「西葛西。姉ちゃんの借りてるところだけど。」
「ちゃんと帰ってるの?」
「ずっと帰ってない。」
「どうして?」
「男がいる日は帰ってこないでって。いるのはいつも違うヤツだけど。」
「親は?」
「知らない。ずっと会ってない。8年くらい。どこにいるか分かんない。」
「8年って、小学生の時から?」
「まあ。そうだけど。」
「じゃ、施設で?」
「うん。中学入ってからね。」
親が居なくなってから施設に入るまでの数年間はどのように暮らしていたのか気になったが、今日は聞いてみるのをやめた。
「今日はお家へ帰れるの?」
「帰れないと思う。」
「そう。今日はどこへ帰るの?」
「そこら辺のネカフェ。最近は渋谷からあまり出ないよ。今日は久々に出たよ。」
「そう。」
夏子はこれからは渋谷でお散歩したり買い物をするのはやめようと思った。
「送ってくれるんでしょう?」
西田はお母さんにねだる子供のように言った。
「駅まで送るよ。渋谷のネカフェへ私も行く必要なんて無いでしょう。」
夏子はまたため息をついた。
「話が違うよ。で、あんたいくら?」
西田は食い下がって来た。
「どうしてそうなる?その前に君には知らないといけない大事なことが沢山あるみたい。それが分からないと、私は君を好きになることはないよ。」
「だから、金出すって言ってるじゃん。」
西田は、お金を出すと言っているのになぜ夏子が喜ばないのかよく分かっていないようだった。
「あのね、好きな人とじゃないとしちゃいけないって中学校で教わったでしょう?」
夏子は真剣に言った。
「教わってない。あまり行ってなかったから。」
西田は初めて聞いたという風に少したじろいだ。
「最近は小学校の教科書にも書いてあるんだよ。」
夏子は内心吹き出すのを抑えながら、さらに真剣に言った。
「そうだったのか。」
やはり西田は素直な子なようだった。
「嘘だよ。本気にするんじゃないよ。とにかく今日は渋谷へ帰りなよ。もうすぐ天気も悪くなりそうだからさ。」
夏子は西田の肩をまた軽くポンポンと叩いた。西田は泣き腫らした顔を上げて頷いた。

夏子はまた西田の手を引いて歩き出した。西田は仕切りに夏子の顔色を伺っていた。夏子は、幼稚園へ行きたがらない息子を何とか連れ出すお母さんのような気持ちになった。

夏子は駅のホームで西田を見送った。電車に乗り込んだ西田はほんの少しだけ微笑んでいたような気がした。夏子も少し安心した。

電車が走り去ると、夏子へどっと疲れが襲ってきた。こんなに良くも悪くも心臓にくる日は中々無いなと思った。

携帯を開くと、昼の11時を過ぎていた。エマからの着信が2件、メッセージもあった。エマからの心配のメッセージへ、今駅に着いたからもうすぐ帰るよ、と返信し、また歩き出した。
曇り空の雲の隙間から数本の光の筋が見えた。その光の筋が、夏子を励ましてくれているような気がしてならなかった。この状況を解決する方法はきっとあると夏子も信じようと思った。


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