空 第16話

〈 猫 〉

次の日、お母さんだけでなく、お父さんや妹も見舞いに来てくれた。病室に入れるのは大人一人だけなので、お父さんと妹とは、窓越しに話をした。お父さんが妹を肩車していた。私が窓の側に立つと、妹とちょうど同じ高さになった。いつもは当たり前すぎて何とも思わなかったけど、久しぶりに会う妹はすごく可愛かった。最近、新しい野良猫が庭に来るようになったらしい。うちのシロちゃん(飼ってる猫)と仲良しらしい。早く見てみたいな、と思ったけど、サトシくんの部屋の窓が空いていたから、うなずくだけにしておこうと思った。
「あれ、お姉ちゃん、猫嫌いになったの?」
「そんなことないよ。見たい。抱っこしたい。」
「黒と茶色の猫なんだけどね、すぐ逃げちゃうから、抱っこ難しいと思うよ。」
煮干しに糸をくっつけて、釣りのようにして捕まえようとか、野良猫を捕まえる方法をあーでもないこーでもないと話した。お父さんは途中で一度、
「気の毒な猫だな。」
と言っただけで、静かに姉妹の会話を聞いていた。
お昼ご飯の頃にはみんな帰っていった。今日はこれからお寺に行くそうだ。私の回復を願ってくれるのだとか。願わなくても、十分もう元気で大丈夫だから、早く退院できるように願って欲しいなと思った。
今日はサトシくんはお勉強の日らしい。広い部屋の片隅の教室で、大学生に教えてもらっていた。すぐに終わりそうな感じでもなさそうなので、病室に戻ろうと廊下へ出た。右奥には殺菌マットの先に、仰々しい機械が沢山見える。ガラス張りの個室の一つのカーテンが少空いていて、ランプがいくつも点滅している。
左の廊下の先には、小児病棟の入り口のドアが見えた。静かそっと行ってみることにした。
自分の病室から10歩か15歩くらいしか離れていないのに、本当に急に静かになった。静かな中に、何か気配はする。機械の音と、微かに呼吸が聞こえる。
お風呂屋さんから帰ってきたような女の人が病棟へ入ってきた。その女の人は入り口のドアを開けながら、私をじっと見て言った。
「お部屋に戻った方がいいよ。きっと早く治るから。」
そう言うと、入り口から2つ目のドアに入って行った。誰かのお母さんみたいだ。
なぜか叱られたような気分になって病室へ戻ろうと振り返ると、看護師さんも真顔で私を見ていた。
「そっちにトイレは無いよ。」
メガネの目が怖い。
「はい。ごめんなさい。でもどうして、あのお母さんはお風呂屋さんへ行ってきたのかな。」
「病院の中には、ずっと病院にいるお母さんが入るお風呂の部屋があるの。」
「あのお母さんは、私のお母さんみたいに毎日お家に帰らないでずっと病院にいるの?どうして?」
「まあ、色々。とにかく、病室とトイレとテレビのある広い部屋以外、行かないでね。」

「はい。わかりました。」
私は猫のようにパジャマの首根っこを軽く摘まれながら病室へ戻った。
ベットの側を何度か行ったり来たりした後、やはり病室から出たくなって、ドアノブに手をかけながらドアの小窓から外を覗いた。さっきのメガネがしっかりとこちらを見ていた。どうも今は外に出られそうにない。
仕方なくベッドで塗り絵を始めることにした。
塗り絵といっても白い紙に竹定規で線を引き、1センチの方眼を書いただけだ。真ん中の色は青にした。そのマス目の上は何色にしようかな、青い空の上には月があるから黄色にした。その先には太陽があるから黄色の上には赤を塗った。その上には黒を塗った。きっと宇宙。
青の下を考えた。屋根があるから青の下は瓦の灰色にした。土の上には草が生えているから、灰色の下には緑で、その下に茶色を塗った。その下は黒にした。土の下はよく分からないから。
青の右横は白にした。ご飯。次はランドセルの赤。道路の灰色、杉の木の深緑、校門の白、ウサギ小屋のピンク、下駄箱の茶色。
じゃ、斜め上方向はどうしょうかな。頬杖をつきながら天井を眺めた。
まだ私には分からないルールが沢山あるみたいだ。
私のお母さんは毎日帰らなければならないけど、お風呂から帰ってきたあのお母さんは帰らなくてもいいみたいだ。あの特別なルールはどうしてだろう。
そんな事を考えていると、隣の病室からドアの音や筆箱の缶の音がした。それからしばらくすると、半開きの私の病室のドアの隙間からサトシくんの顔が覗いて言った。
「オセロ、やってみようか。」

広い部屋のへ進むサトシくんの後ろについて行った。サトシくんが勉強している間、オセロを抱えてテレビの前でゴロゴロしていた私が目に入ったのだう。結局、オセロやってくれそうな人が見つからなくてとぼとぼ帰ったことも。
サトシくんは優しい。私にこんなお兄ちゃんがいたら怒られる回数は多分半分になるだろうな。家にいる時間が増えるから、間違ってよその家の畑のスイカを踏んで割ってしまうこともないだろうし、お墓の花壇に落ちて、花を踏むこともない。転んだ拍子にぶつかった小さな地蔵も、倒さなくて済んだはずだ。
サトシくんはオセロが得意みたいだった。負けそうだなと思うと、すごく変な手をしてわざとあまり差がつかないようにしてくれる。
「煮干しに巻きつける糸は、細い方がいいと思うよ。」
「あ、聞こえてたの?」
「うん。煮干し、どこに置いておくの?」
「多分、屋根だと思う。」
「屋根?」
「うん。私よく屋根に登るの。ボーッと寝てるだけなんだけどね。燕の巣か足元にあって、たまに猫とかカラスとかムクドリが近くをトントン歩いたりするのを、じーっと聞いてるの。夜に屋根にいた時は、一度、フクロウかミミズクが来たこともあった。目も体もすごく大きかった。すぐに飛んでいってしまったけどね。」
私は変なこと話したかもしれないと思って、それ以上話すのをやめた。
「で、それで?」
サトシくんか聞いてきた。思いの外楽しそうだ。
「こんな話面白い?」
「うん。面白い。屋根って登ったことないし、登ろうなんて考えたことない。」
「え、そうなの?」
言っても良いことと良くないかもしれないことが何なのかわかりそうな気がしてきたのに、また全然分からなくなった。
「どうして屋根に登るの?」
「理由はないけど、気持ちがいいよ。家の裏に高い杉の木が5本あって、そこにカラスの巣があるの。卵からひながかえると、カラスがもの凄く威嚇してきて少しうるさい時もあるけど、お母さんに見つからなければ、大体静かで、とても好きなんだ。」
「カラスが威嚇してくる時期は屋根に登れないの?」
「登るよ。そういう時は、猫の真似をするの。」
「どういうこと?」
「威嚇してくるカラスとしばらく睨めっこするの。その間、体は動かしちゃダメで、しばらくしたら、私はカラスに興味なんかありませんという気持ちで、寝転がって空を見てるの。そこからはもうカラスのこと見ちゃいけないの。そうすると、なぜか、威嚇しなくなってくるの。多分、私のことを人間とは思わなくなってくるんだと思う。多分、私のこと猫だと思うようになるんだと思う。」
「へー。面白い。そんなこと考えてんのか。でも、何となく僕も屋根に上りたくなってきた。」
「よかった。変な人だと思われたくないから、この方法は秘密にしてきたんだ。誰にも話したことがない。でもサトシくんに分かってもらえて、嬉しいよ。」
「いや、分かってないと思うよ僕。そして良ちゃんは変な人だと思ったよ。でも、変で面白いよ。良ちゃんのことなんて分かんないけど、楽しいよ。」
「じゃあ、よかった。」
私はオセロ負けそうだなと思いながら言った。でもまたサトシくんは次の手でありえないような変な所に駒を置いた。こうなったら、私もありえないような変な場所に駒を置いてみようかなとか考え始めた。
「早く帰って猫、捕まえたいでしょう?」
「うん。それよりも、病院は一人で眠るでしょう。静かすぎて眠れない。」
「そうなの?」
「うん。この前まで、お父さんとお母さんと妹と四人で2枚の布団で寝てたの。4年生になったから、2段ベットをお父さんが買ってくれてそれで眠るようになったけど、やっぱり襖越しに、お母さんとお父さんの喧嘩だとか、お父さんとお母さんのいびきだとかがいつも聞こえてくるのね。それに、私は2段ベットの上で寝てるけど、妹が夜中に登ってきて勝手に隣で眠ってたりするの。完全に一人で眠ったことなんてなかった。うるさくて嫌だと思ってたけど、そうでもなかったみたい。寂しくなっちゃった。」
「そうなんだ。僕は4人部屋の時とかは色々聞こえたけど、一人部屋になってからはもう何年も一人だな。家とかもう忘れてきた。どんなだったかな。」
サトシくんは、私の変な手に首を傾げながら、お家を思い出してるようだった。
「あ、そうだ、引っ越したらしいから、家族が今住んでるのは、僕が知っている家じゃなかった。」
奇妙な手を思い付いたのか、オセロの駒を置きながらにんまりとした表情で言った。
「そうなんだ。」
そう言いながら、どこに置いたらサトシくんが笑っちゃうくらい面白くなるかなと考え始めた。
サトシくんの世界を思う。小学校に入った頃には病院で暮らしてて、それからずっとここに居るんだね。そしてこれからも、すぐに退院できるわけじゃないのだろう。

病室に戻ると、点滴交換の看護師さんが来た。
「良かったね。明日点滴抜けるみたいだよ。」
付け替えた点滴袋を丸めながら言った。メガネの目が今日は無くなっている。
「やったー!」
嬉しさのあまり「や」だけ大きな声を出してしまった。言いながらすぐに、ドアと窓を見た。閉まっていた。
「退院ももうすぐみたい。きっと明後日。明日お母さんに先生が話すって言ってたよ。良かったね。」
「わーい!」
小さな声でガッツポーズをした。
明後日退院。あと2回寝れば帰れる。でも、サトシ君とはさようならになる。

消灯され暗くなった病室で目を閉じた。

目を閉じた瞬間、頭の中に何故かたくさんの泡が浮かんできた。そして、少しずつ消え始めた。それを眺めながら、秀夫のこれからを考え始めた。




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