空 第21話
〈 宿題 〉
私は縁側に寝そべりながら、枯れた鉄線の花をじっと見つめていた。
退院して2週間以上経ち、もう肺の息苦しさも無くなり、すっかり回復した。しかし、明日で夏休みも終わってしまう。
この日の朝、流石な私もそろそろ夏休みの宿題をしなければと思い始めた。
最初に手をつけた読書感想文は、途中まで書きかけて、急に何を書いたら良いか分からなくなり、お仏壇の前の座敷にその原稿用紙が広げたままになっている。
気晴らしにと思って手をつけた宿題の花の絵も、思うように描けなかった。
今、目の前で細い針金を丸めた玉のようになっている枯れた鉄線の花は、夏休みが始まった頃は、透き通るような青い花びらを付けていた。
風が吹けば回り出しそうな風車のような花を、透き通るようなその青い花を描いてみたかったのに、紫色の朝顔のような花の絵になってしまった。
顔を伏せると、日に焼けた床の杉の匂いがした。
伏したまま首だけを出して、軒下を覗いた。
祖父の草履の横に蟻の道が出来ていた。蟻の道の少し向こうに土を堰き止める庭石があり、赤、紫色の花の咲くツツジが何本か並んでいる。
祖父はこのツツジの木がとてお気に入りで、冬以外は剪定を欠かさない。しかし今年は少し違っていた。
下から伸びた細い蔓が、丸いツツジの木に這い伸びて、剪定できない部分ができてしまった。
「蔓を切っしまえばツツジがきれいになるのに。」
と祖父に言うと、
「まあ、そのうち分かる。」
とだけ言って、この鉄線の蔓は切らずに特別扱いだった。
ツツジの花が終わり、真っ赤や真紫だった木が、すっかり深い緑の木へ変わった頃から、次々と鉄線の青い花が開き始めた。
水々しい青い花。梅雨の雨にもとても似合った。梅雨が明けて、夏になっても、ツツジの半木陰で涼しげに咲いていた。この時から、私の中で、今年の夏休みの宿題の花の絵は、鉄線と決まった。
しかし、実際に描いてみるのは難しかしかった。
仕方なく、なかなか進まない感想文に戻ることにした。
やはり何も言葉が浮かんでこない。
感想文はそもそも、どのようにに書くのだろう。
さらに気晴らしのために、屋根に登ることにした。二階への階段を登り、屋根へ降りるための高窓へ登るために、2段ベッドの梯子を上がろうとした時、隣の部屋のお母さんの鏡台の前に、見慣れない赤いノートが置かれているのが見えた。
2段ベッドの梯子を降りて、鏡台に近付いた。ノートを開こうとしたが、鏡に映る自分自身の顔がどうしても邪魔になった。目の前の開いた三面鏡を閉じた。そしてノートを開いた。
お母さんの日記だった。
最後のページを見た。昨日の日付だった。
友人から電話があった。浅井さんが亡くなったらしい。自殺とのこと。奥さんやお子さんもいたはずなのになぜ。私はなぜ浅井さんと結婚しなったのだろう。きっととても大事にしてくれたはずなのに。何度も何度もプロポーズしてくれた。それなのに、あの時は結婚を選べなかった。もしあの時、浅井さんと結婚していたらどうだっただろう。浅井さんはこんな風には亡くならなかったかもしれない。そして、今の結婚は本当に良かったのか。
昨日の夜、台所で泣いていたお母さんを思い出した。
お父さんやおばあちゃんと喧嘩したわけではなかったみたいだ。でも、お母さんは幸せじゃないのかな、そんな気がしてきた。娘の私ではどうにも出来ないような寂しさが、お母さんの日記から感じられてきた。
大人は、自由に使えるお金があってとても羨ましい。殆ど全てのことを自分で自由に決める事ができて、本当に羨ましい。そう思っていた。
でも、自分で選んだとしても、それが正解か不正解かなんて分からないものなのかもしれない。
正解を選ぶには、どうしたらいいのだろう。
屋根へ登る気も失せて、階段をとぼとぼ降りていった。そして、仏壇の前の座敷に広げてある原稿用紙の前に寝転んだ。
感想文の物語の主人公は、怪物と勇敢に戦っていたけど、私ならきっと戦わない。戦うふりをするかもしれないけど、何とか共存の道がないか、考えるだろうな。
そうだ、これを書こう。
戦わないと決めたら、言葉が頭の中に湧き出してきた。
私は怪物とどんなお話をするのだろう。
そしてその怪物とお友達になる未来も想像した。
言葉が浮かばなかったのは、自分と違すぎる、強い主人公に感情移入出来ていなかっただけだった。
私は思いついたままに、下向用紙を埋めていった。
感想文はそれからあっという間に書き終えた。
原稿用紙を折りたたんでいると、猫のシロが庭から縁側に飛び入り、廊下の日陰にちょこんと座って自分の手足を舐め始めた。
シロを眺めているうちに、サトシ君を思い出した。私がいた病室に入った子が、サトシ君とお友達になっていたらいいな。
花の絵はあの朝顔のような絵を提出することにした。創り出す宿題はこれでおしまい。明日は余裕のある夏休みの最終日を過ごせそうだな、などと思いながら計算ドリルを開いた。