空 第24話
〈 決断 〉
良子は、あの日の、背中を丸めて泣いている秀夫を見に行くために目を閉じた。
秀夫は地獄だと言われる隔離病院へ行くか、それともこの街中の橋の下で、やりたくない事をしながら知らない誰かに飼われる生活をするか、又は他の場所へ行くか迷っていた。
もうすぐ夜明けなのか、鳥の気配がし始めた。
昨晩、松明の男が言っていた。
「自由はある。夜ならどこへでも行ける。橋の下には面倒見の良いお爺がたまに来て、食い物を持ってきてくれる。まあ、お爺の仕事も手伝わないといけないがね。仕事と言っても、人に言えるようなもんじゃないが。大丈夫。一度やれば、二度目からは慣れる。」
人に言えない仕事って何だろう。他の人の畑から盗む事か。しかしそうなら、お爺という人は、橋の下へ食い物を持ってくる必要がないはず。それなら、それはどんな仕事だろう。一度目やれば、二度目からは慣れる仕事。一度目は怖いのか。二度目やる時には、もう僕は今の僕とは違う人。
ここまで来るまでに僕は色々盗んだ。畑の野菜だって、佃煮だって。もう、家にいた時の自分とは、もう違う人になってるのかもしれない。吉野さんのところでも、味噌汁の味噌も、元々は盗まれた物だよな。
秀夫は怖くなって頭を掻きむしった。
「ライ病は、罰当たりな奴がなる病気だ。厄介なことに、移ったり、遺伝したりする恐ろしい病気なんだ。」
微睡んでいるぼんやりとした意識の中で、今度は兄の声が聞こえてきた。
家にも居られなくなった僕に、どこにも居場所などあるはずが無い。
「おそらく、ライ病はそう簡単に罹るもんじゃないんだよ。」
吉野声が聞こえた気がした。
そうだ、僕はこの事を登に伝えたかったのだという事を思い出した。
隔離病院が地獄のような所でも、僕の居場所はそこしかない。
草原にいる鳥の声が段々と大きくなり、秀雄が起き上がると、近くの茂みから、鳥の群れが、明るくなり始めた東の空に向かってワッと飛び立って行った。
秀夫も広場へ向かうためにスクッと立ち上がった。
広場は閑散としていた。人があまりいないというだけでは無い。昨夜立ち並んでいた屋台店が、嘘のように跡形もない。力士がいた場所も、そこまでの人通りの多い細い路地にも、今は何も無かった。それは、隔離病院へ行く車を探すのにはとても好都合だった。
時間が経つにつれ、人通りは多くなったが、夜と朝とではこんなにも景観が違う場所があるのかと秀夫は思った。
車の往来も増えてくると、広場に停まる車も多くなった。秀夫は停車したどの車にも駆け寄り、隔離病院への車かどうかを聞いて回った。
そのうち、広場に屋台店が立ち始めると、蕎麦の匂いで辛くなってきた。2日近く、佃煮以外何も食べていなかった秀夫のお腹がぐうぐう鳴った。
さらに時間が経ち、昼近くになった。もう朝とは言えない時間だ。秀夫は今日のところは諦めて、今日はどこで世を越そうかと考え始めた時、白い車が停まったのが見えた。男性が一人乗り込んだ。一緒にいた老女が車の外にまだ立っている。
秀夫は車の入り口に立っている男に声をかけた。
「隔離病院へ行く車を探しています。」
「この車だけど、名前は。」
男は紙の束に手を伸ばしながら言った。
「吉野 一夫です。」
秀夫は咄嗟に考えて言った。
男は名簿を捲り始めた。
「名簿に名前が無い。親はどこ。登録が無いと乗れないよ。席数が決まっているからね。」
男はそう言うと、片足を乗りかけた秀夫を止めた。
「僕には親がいません。だから警察のおじさんにお願いしました。そして、今日ここへ来るように言われました。本当ですよ。そこの交番です。一緒に来てください。」
秀夫は一か八か、ハッタリをかましてみた。
「分かった。でも、席が一杯なんだ。ここで誰か来ない人がいない限り、お前さんを乗せてやることができないんだ。あと2人ここで乗るはずだから、どちらかが来なかったら乗せてやる。待ってな。」
「分かりました。」
程なく一人の女が車に乗り込んでいった。
秀夫は顔を両膝あたりに伏せて、車の側に座り込んだ。お腹が空いて立っていられなかった。
暫くすると、車の男が秀夫に言った。
「一人来なかった。乗りな。」
秀夫の乗った車が動き出した。小さくなっていく老婆が涙を拭っているのが見えた。
家を出た日の、母の姿を思い出した。暗闇の中に微かに見えた、一人涙を拭っていた母。
僕は今から吉野一夫になった。もう鈴木秀夫では無くなった。
そして、これからどんな地獄が待っていても、生きてやろうと決めた。