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かんがえこと-22

6月3日(月)晴

早めに家を出て学校そばの銀行へ。まだ空いておらず。誤算。存在と記憶だけを頼りに、重要なところは調べない。いつものこと。

母からメール。巨人戦の日はお父さんは病院の日です。行けません。

帰宅後は日記をまとめて書く。半年も書いていなければ、書き方もわからなくなっている。自分のことばなのに。今読んでいる「台風一過」の影響も受けている気がする。


6月4日(火)晴

制作の発表。準備できていたこともありまぁまぁの出来。手はふるえていた気はするものの、楽しむ余裕が出てきたような気が起き始めているような、雰囲気を感じたりもしている。

途中下車してひと息、サンマルクカフェに入って読書。その足でジュンク堂。帰ってからはイベント告知したりツイートとにらめっこ。やはり少しでもいろんな人に届けるには、何度も何度も送るよりない。夜になって前職場の取引先でお世話になっていたM氏からラインが来ているのに気づく。最後に店で会って以来2年ぶり。飼っていたハリネズミがなくなったらしい。あとから飼ったうちは1年以上前に亡くなっていたけれども、そういえば私は伝えていなかったのだった。どうもラインのことばは会話のように気軽なようで、その人のことばの伝え方、が如実にあらわれるなぁと、会話以上に難しくて。つまり合う合わないとか、見えてしまうようで。

いろんなやりとりに、良くも悪くもかき乱される。疲れる。


6月5日(水)

デザインをかんがえる時には、色などは最後にかんがえること。初めから色を決めてしまうと、イメージがすべて色にもっていかれてしまうのだと。

人を見るときだって、自分はなにか本質ではない、見かけやイメージばかりにとらわれて、決めつけて、はいないだろうか。


日記がやっと、今日に、追いつく。


6月6日(木)

かき乱されたまま、ぐるぐる、こういう日は、寝起きが悪い。コンビニで小銭の計算ができない。

相変わらずの満員電車に辟易する。何にって、皆もうそれがあたりまえというか、あきらめているというか。


6月7日(金)

帰り、東京ステーションギャラリー。撮影可の展示はやはり、こうなるのかと。観に来ているのか撮りに来ているのか。ともかく色彩感覚がすばらしい作品。

時間があるので大手町のドトール。寒い。だいたい端っこの席空いてたラッキー、と思うときは空調が直だったりする。そもそも、思いのほか気温の下がった日にTシャツ一枚で来てしまったことを後悔。

下北沢へ向かう。無印良品でカーディガンを買う。


6月8日(土)

温又柔のインタビュー。「雑音的な部分をきちんと大切にしながら表現しなくてはいけない」。

屋号につけていたサブタイトルのようなものが少し恥ずかしくなっていたけれども、そのままで悪くないのかもしれない。暗闇に光るようなもの、ふつうの中にあって、こぼれおちそうなもの。


三省堂。ノンフィクションの棚を目で追っていると、不思議とはっきり見覚えのある名前。昨年名刺作成を受けたお客にまちがいない。特徴のある表記、来店時のあの迫ってくる感じと声と、ファッションと。波乱万丈であったらしい半生を帯文だけで理解し、棚に戻す。


あれ、”人を見るときだって、自分はなにか本質ではない、見かけやイメージばかりにとらわれて、決めつけて、はいないだろうか。”



本にしてみれば、どんな自分自身でも受け入れられるようになるのだろうか。

間違い探しばかりしている人生でも。

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