絵本日記DAY 18 おっきょちゃんとかっぱ
立秋が過ぎて、ここ数日は雨つづきの盛岡。そろそろ夏がいなくなってしまいそうなので、あんなにもうたくさんだ、と嘆いていたはずの夏のしっぽをあわててつかまえて、この季節のうちに読んでおきたい絵本を書き綴っておきます。
作者は絵本界の大御所、長谷川摂子さん。
まず、主人公のおんなのこの、「おっきょちゃん」という響き。
おっきょちゃん。
たぶん、子どもたちのエンジンがじゅうぶんに温まっていれば、このすっとんきょうな音に、ここで大笑いが起きるはず。
もし私が年長児のクラス担任ならば、じゅうぶんに子どもたちと信頼関係ができてきた夏休み直前か、2学期がはじまってそろそろ秋の気配がしてきそう、というギリギリのところでよむと思います。
おはなし会だったら、何冊かよんだ後に、いちばん最後あたりによむと思います。
なぜ、時期や順番にこだわるか。
それくらい、この物語が完璧につくりこまれたものだからであり、子どもたちと一緒にこの摩訶不思議な河童の世界にひたひたに浸かって、なんならもう河童のままでもいいや、と思えるくらいどっぷりと浸かることこそが、この絵本をひらく醍醐味だからです。そしてそのあとのしずかな余韻を、一緒にあじわいたいからです。
いわゆるこういう『冒険絵本』には、いくつか絶対的な条件が存在します。
まずひとつ目は、「こわい」こと。
怖くないジェットコースターなんて、はじめから乗る意味などないのです。
スリルが欲しくないのなら、メリーゴーラウンドに乗ればいい。
怖い。乗りたくない。でも、でもやっぱりあの浮遊感を、足がすくむ恐怖を、味わいたい。
だから、あんなに何時間も何時間も、日常生活ではありえない時間をつかって列にならび、ものの数分で泡のように消えてしまう「恐怖」を味わうために、アトラクションに乗るのです。性懲りも無く。
そして、「あー怖かったねぇ!!!」を、たいせつな誰かと分かち合う。
つまり冒険絵本に欠かせないのは、リアルなスリルです。
河童のとがった爪も、「にんげんの子だ!」と肝を狙って、もの珍しそうにおっきょちゃんの髪をスーッとすく姿も、身の毛がよだちます。
そこがやはり降谷ななさんの描く世界の素晴らしさであり、長谷川摂子さんに信頼されているところではないのかしら、と思ったりするわけなのです。
同じコンビの絵本「めっきら もっきら どおん どん」も、日本の伝統文化と言える妖怪と男の子のファンタジーですが、ちゃんと、”こわい”です。
そして、冒険絵本でおそらくもっとも大事なことは、
「ちゃんとお母さんのもとへ帰れる」というところ。
子どもたちは、お母さんの膝の上で、あるいはおなじベッドの中であったとしても、(だからこそ)、まるごと全身絵本の世界に入りこみ、息をひそめたり荒くさせたりします。もちろん彼らは無意識に。
これが、『絵本体験』です。
もう自分はおっきょちゃんになって、すいすいとはだかんぼうで泳ぎ、かっぱのガータロのことがいつの間にかとってもすきになっていて、ただただ夢中で遊ぶのです。このあたりの描写は、昔話『浦島太郎』の要素を感じます。すべてを忘れ去り、海の世界の生き物になってしまうおっきょちゃん。
そして、「お知らせ」は不意にやってきます。
遊び呆けるおっきょちゃんのもとに、お母さんがつくってくれた布の人形が、ぷかりぷかりと落ちてくるのです。おっきょちゃんの”べべ”を着た、慣れ親しんでいたはずの、あの人形が。
そこでおっきょちゃんは、その人形を見つめつづけ、ある日忽然と、思い出すのです。まる四日もかかって。
「うちにかえりたいよう。かあさんのところに かえりたいよう。」
たくましい子です。この子は、自分の幸せというものがなんなのか、理屈ではなく、肌で知っている。
だからこそ、庭のきゅうりをむんずと掴んでお土産にもち、突然出会った河童の子と川へ飛び込むことができるのだし、「お母さんのところへ帰りたい」とおいおい泣くこともできるのです。
そして。ガータロと、その家族が骨を折ってくれ(河童って、骨ありましたっけ)、海底の年長者のところ(こういう、イタコ的な、魔女みたいな女性はいつの時代もどこの世界でもいるものなのですね)へ行き、もとの世界へもどる方法をおしえてもらうのでした。
この河童家族が、やさしい家族でほんとうによかった。ここで、最後の「お母さんのところへ帰る」というクライマックスの大冒険のまえに、ぷはぁと、一旦息つぎができるわけです。
お母さんのところへ帰る方法がまた、長谷川摂子マジック。あったかくて、海底で知らぬ間に冷えきった体温がじんわりじんわりもどってくるような、素晴らしい場面です。
どんなに恐ろしい冒険も、いつかはちゃんと、終わりがくる。
お母さんのもとへ帰ることができる。
この「約束」が守られていること、保証されていることこそが、冒険絵本の絶対的条件だと、わたしは思っています。
恐ろしい想いを経験して、でもそのなかには、ここに来なければけっして満たされなかった好奇心や、心の奥底から湧き上がる爆発的なたのしさがあって。それが「絵本のなかを歩く」ということだと、わたしは言いたいのです。そして最後、お母さんの膝の上にもどってくることができてはじめて、『勇敢な絵本体験』が成り立つのです。
その「約束」が、長谷川節全開であたたかく守られているのが、この絵本だと思っています。そしてこれが、前述の「めっきら もっきら どおん どん」が今尚、ベストセラーであり続ける理由なのだと。
元の世界、じぶんのいるべき場所に無事もどったおっきょちゃん。
おっきょちゃんの姿をみたお母さんの台詞もまた秀逸で、こちらの体の力もぐにゃりとぬけて、思わず涙がでそうです。そしてどっと、冒険の疲れを感じる。夏休みの午後、プールのあと、くたくたになってお昼寝するときの、あの疲れです。
ガータロとすごした海底の日々の記憶は、彼女にはもう、ありません。
ガータロ、あなたはどう?
おっきょちゃんとの日々、すべて忘れてしまった?
裏表紙のガータロをみれば、あなたはきっと気づくはず。
そして、わたしたちもいつの間にか、かっぱのガータロと友達になっていたのだ、ということにも。
おっきょちゃんとかっぱ 長谷川摂子・文 降谷奈々・絵 1994年9月1日 こどものとも発行 福音館書店