後書きなのか、前書きなのかはわからないけど
私は今、「光」(仮題)という文章を書いている。これは、文章としか言いようがないもので、完全フィクションでもなければ完全ノンフィクションでもない。
それは、この文章の出自が関係している。いつも、自分の人生で起こったこととそこから受け取ったものしか書けず、フィクションが書けないのが悔しくて「創作の世界」の集中講義を機に「光」を書き始めた。掌編を書くという最終課題で途中までは筆が進んだが、締め切りが近づいてからは少々投げやりに書いて提出してしまった。
この際だからはっきり言おう。
私の書いている文章にはほとんどモデルがいる。
「光」に出てくる京太郎もそうだ。名前も違えば、外見も違うように描いているものの、彼との体験が私の人生において変化をもたらしてくれたから、書きたいなと思った。私の友達の中には、私が話していたあの人かなと見当が付いている人もいるだろう。
「光」を書き始めた頃と、今とではすっかり彼との関係性が変わった。私が「光」を投げやりで終わらせてから、今まで、本当にいろんなことがあった。
そして、この春、「光」を書き終えたいと強く思った。これは投げやりにされた「光」の主人公が可哀想に思えたことと、2月に起こった出会いと別れ、書き終えたほうがいいという強い直感、の全てがきっかけになった。私が愛していた京太郎と私の感情を何も脚色せず、良く見せることなく、そのままの形で残しておきたいと思った。
だから、「光」の冒頭の情景はフィクションなのに、途中からは私の人生を丸々書くことになりそうだ。これを言ってしまうかどうかすごく悩んだ。
でもそのほうが(いきなり過去形がいっぱいになるとかセリフが減るとか独白が増えるとかで)文体が変わっても、この前置きがあることでまだ読める文章になると考えた。何よりそんなことで、途中で読むのをやめてほしくない。(あ、でも辛くなったらもちろん読むのやめていいよ。健康第一!)自分でも、これだけ弱みを晒す文章を、知り合いもいるのに、読んでほしいと思う理由がどこにあるのか全く分からない。さっぱりわからない。私は尼なのかな。でも、そうすることが私の運命であるように感じる。だから、読んでほしい。
いわゆる、私小説といったところか。
これほどまでに読んでほしい文章は、いまだに執筆中で完成していない。だから、私が昔書いたフィクション部分の冒頭がすっかり抜け落ちるかもしれないし、そのまま残るかもわからない。ただ、必ず書き上げるので待っていてほしい。
私は、自分から小説が書けるようになりたいと思ったことはない。高校生の時から自然と、生きることは書くことで、書くことは生きることになった。うまく書けているかは置いておいて、書いて形にすることができた。敬愛する太宰先生のように(全く次元は違うが)自分の文章を書けることを私は幸せに思う。
いつも、私の文章を読んでくれるあなたたち、書き続けてほしいと言ってくれたあなたたち、読ませてねと言ってくれるあなたたち、とにかく私の文章について少しでも言葉をくれた人たち、本当にありがとう。
必ず生きて帰ってくるので、待っていてください。